よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

3.集団就職とがじゅまるの会

澤宮 優Yu Sawamiya

 昭和53年5月、彼女は未払い賃金とわずかな退職金をもらって和解し、退職を余儀なくされた。玉城は当時を振り返る。
「当時後輩たちは金の卵ともて囃(はや)され持ち上げられながら、実際は待遇の悪いところで働かされていました。悪条件で彼らを使っている会社の連中に一矢報いてやらなければという思いがありました」
 そんな悩みを持つ若者はその後も多くいた。現在50代の島尻浩喜は、沖縄県石川市(現・いるま市石川)から大阪の会社に就職した。兄弟は7人おり、家は裕福ではなかった。本土は雰囲気が違い、大きく戸惑い、悩んだという。
「とくに言葉に悩みました。話しかけられてきても意味がわからず、答えられない。周りからもあいつはしゃべらん奴だと言われて。もともと僕は一人でいるのが好きで、休憩時間も周りと行動をともにしなかったんですが、社長に協調性がないと言われました。単に性格の問題なのに……」
 そんな彼の支えになったのが、「がじゅまるの会」である。エイサーの祭りを見に行き、仲間から歓迎され、彼自身も会に関わってゆくことになった。そういう逃げ場があったことが自分には大きかったと彼は言う。会社員として元気に働き、昨年(令和4年)定年退職まで勤め上げた。
 沖縄青年の祭りは、「エイサー祭り」と名称を変えて今も続いている。「がじゅまるの会」の大事な行事で、観客は1万人を集めるほどになった。場所は当初と同じ、大正区千島グラウンドである。
 時代は平成、令和と変わったが、今の沖縄出身の人たちも、それぞれに苦労を抱えながら自分の道を見つけ出している。
 大阪市中央区で沖縄料理店「ソーキ家」を経営する澤岻(たくし)努は、現在「がじゅまるの会」の会長を務めている。彼は宜野湾市出身で40代後半。若い時に割烹料理店で修業していた頃は辛かったと言う。
 沖縄出身の彼は、大阪の人から見れば、動作がのんびりしているように見え、そのためによく叱られた。言葉の違いにも苦労した。その苦しみを癒してくれたのが、「がじゅまるの会」のエイサーだった。
「都会の中で自分の原点を見つけた思いがありました。あの頃は本土で自分の故郷が欲しかったんです。仕事で辛いときもここにいれば頑張れるという思いがありました。当時は料理人として生きてゆくことに必死でしたからね。一人黙々とエイサーをやることで、また打ち解けられる仲間がいることで、ずいぶんと励まされました」
 第43回(平成29年)のエイサー祭りの実行委員長を務めた宮里政之は嘉手納(かでな)町出身で、生まれたときから親しんだエイサーの太鼓の音、歌、すべてが耳に残っている。この回のときは彼の父親が、祭りに参加する人たちに嘉手納のエイサーを教えた。太鼓も大きく、踊りも激しいのが特徴である。その宮里の書いた一文がある。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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