4.演劇「人類館事件」が訴えるもの
澤宮 優Yu Sawamiya
その大正区に、6千冊の沖縄関連の書籍や資料を集めた「関西沖縄文庫」がある。沖縄出身の両親を持つ金城馨が昭和60年に設立した施設で、図書の貸し出しや、大正区のフィールドワーク、ライブ、三線(さんしん)教室などが開かれる沖縄文化の拠点である。金城は、昭和50年代後半にこの事件のことを知った。そのときの衝撃をこう語る。
「頭がぐらぐら動き回り、収拾がつかなかったです。やった人は何かを表現したかったのか、それとも想像力の欠如で起こったのか。僕ら沖縄の人間は展示された側だから、驚き、悔しさ、怒りなど、もろもろの感情が混ざって、簡単に言葉では表せなかったです」
内国勧業博覧会は、国内の各地から集めた物品を展示する博覧会である。明治政府の主催で第1回は明治10年に開催された。富国強兵、殖産興業を推し進めた中央集権体制の成果を確認する目的があった。
しかし明治28年に日本が日清戦争に勝利すると国力も増し、工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟したことで海外からの出品が可能となったこともあり、第5回では14ケ国18地域が参加。万国博覧会の趣に近くなった。世界に大日本帝国の力を誇示したいと考えた日本の欲求を反映するように、「人類館」が作られたのである。
「学術人類館」は博覧会の開会から少し遅れて3月10日から始まった。「大阪朝日新聞」(同年3月1日付)の「博覧会附録 場外余興」の記事によれば、展示されたのは北海道アイヌ5名、台湾生蕃(せいばん)4名、琉球2名、朝鮮2名、インド3名、爪哇(ジャワ)1名、バルガリー1名の男女とある。
本来は清国(現・中国)も入れて21名だったが、2月に新聞広告を見た中国人留学生が清国公使、領事館を通して猛烈な抗議をしたので、中止された。このときまで「人類館」と称していたが、抗議を受けた主催者側は名称を開会直前に「学術人類館」に変え、研究の一環だと主張した。
3月18日には「学術人類館」を訪れた朝鮮の人々が、展示された同胞を見て憤慨し、大阪府警務部長宛てに抗議文を出した。韓国公使も外務省に抗議し、朝鮮の展示も中止された。
琉球人で陳列されたのは、25歳と20歳の女性2人である。彼女らは那覇市の娼妓で、会場の売店で沖縄土産を販売してほしいと騙(だま)されて連れて来られたのだという。食事、宿は上等なものが用意され、1人1日1円の給金、前金200円を与えると言われたが、約束は守られていない。
沖縄からの抗議の端緒は、同年4月7日の「琉球新報」の社説「同胞に対する侮辱(人類館)」である。
〈今回の博覧会につき吾々沖縄人が実に憤慨に絶えざるの一事これあり候、即ち人類館に沖縄婦人を陳列したること是なり〉
という書き出しで、同胞に対する侮辱である、として主催者に中止を求めている。陳列室内にある彼女たちの住む家屋のセットも現実よりも大変粗末に作られており、茅葺(かやぶき)の小屋で下には藁(わら)を敷いて座らせようとし(後に当人たちが抗議し、畳に変更)、野蛮風に見せることが強調されていた。陳列室の説明者も、鞭(むち)を持って2人を指し、「こやつは」と呼び、〈誰が聞いても軽蔑の口調で虎や猿の見せ物とかわらない〉(「琉球新報」4月7日付)ものだったという。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。