4.演劇「人類館事件」が訴えるもの
澤宮 優Yu Sawamiya
こうして差別は連綿と繰り返されるのだと訴えているのだ。
「人類館」は昭和53年に東京でも上演された。このときは幸喜が演出を担当したが、セリフをウチナンチュの言葉に変えて、沖縄独特の身体言語を取り入れた。さらに音楽も悲しい曲調をやめて、明るい琉球音楽を使うことで、芝居に重層的な膨らみを持たせ、完成度の高いものとした。
調教師・内間安男の思い
「人類館」初演から昭和57年まで調教師を演じたのが、前述した内間安男である。昭和23年生まれの彼の青春は、祖国復帰運動の渦の中にあった。彼も沖縄が内包する問題と対峙(たいじ)した高校生活を送っている。
内間はコザ高校の演劇部時代に「演劇集団創造」を知り、手伝いとして関わりはじめる。彼が育ったコザは、夜になれば米兵が盛んに飲み屋に繰り出してくる土地だが、町の賑(にぎ)わいは彼らの暴力と常にセットになっていた。
「米兵が沖縄にいるのは、戦争で日本が負けたからとわかっていたけど、暴力とか暴行など非人道的なことをなぜやるのか、高校生の私にはよく理解できなかった。それが演劇活動をすることで、次第に見えてきたんです」
コザの歓楽街では黒人兵と白人兵の間の暴力沙汰が絶えなかった。黒人兵のいる店に白人兵が紛れ込むと、黒人たちは気絶するまで殴る蹴るを繰り返す。白人に差別されるストレスが爆発するのだ。ベトナム戦争真っ盛りの頃で明日をも知れぬ命だから、彼らのストレスも極限に達していた。ただその暴力沙汰で被害を受ける店や沖縄の人々の存在は脇に追いやられていた。
タクシー強盗は日常茶飯事。女性への暴行も多い。しかし事件になっても米兵は基地に逃げ込めば逮捕されることはない。世の中の矛盾を知った内間は思った。
「ウチナンチュは米軍から人間扱いされてなかった。彼らの一時の感情で、理由もなく殴られ、財布を取られ、車で轢(ひ)かれ、強姦されても、抗議する術(すべ)がない。理不尽な振る舞いを受けても、すべて泣き寝入りするしかなかった。これを何とか変えたかった。だから沖縄も日本に復帰すれば、平和憲法が私たちを守ってくれると思いました」
昭和41年、内間が高校生のとき、特派員として沖縄に来ていた日本テレビのディレクター森口豁(かつ)から「高校生は祖国復帰問題について何を考えているのか」と尋ねられた。森口は沖縄の報道番組を多く制作していた。彼は内間の悩みを聞くと、こう言ってくれた。
「慰霊の日に摩文仁(まぶに)の丘まで平和行進があるけど、それに参加してみたらどうですか」
慰霊の日は、沖縄の守備軍が組織的な戦闘を終えた昭和20年6月23日を記念した日で、当時はこの日に那覇市から摩文仁まで約20キロの「慰霊と平和の行進」が行われていた。内間は、自分たちのクラスでも平和行進をしようと提案する。彼は語る。
「僕らは日本語で教育も受けたし、内地の人と顔も同じだし、日本の文化も習った。日本に復帰するのは当然ではないか。それで復帰の意味を行進に託せないかと考えたんです」
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。