2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い
澤宮 優Yu Sawamiya
昨年(2022年)は、沖縄が日本に復帰して50年という節目の年だった。新聞やテレビなどでもいつもよりは沖縄に関する記事や報道が目立った。しかし年が明けると、紙面には沖縄に関する記事や報道はいつものように少なくなった。
歴史を振り返るとき、周年記念行事は過去の出来事に世間が注目するいい機会には違いない。しかし沖縄が抱える米軍基地をはじめとするいろんな問題は、50周年であろうとなかろうと今もそこに現実としてある。そもそも日本復帰のときに解決されなかった問題点が今日まで沖縄の人たちを苦しめている。私たちは常に沖縄について考え続けることが大事なのではないかと思った。
今、辺野古(へのこ)の米軍基地移設問題は特別には大きく報道されない。私も以前よりも関心が薄くなっていた。しかし今年(2023年)3月に3年ぶりに沖縄に行き、辺野古を対岸の浜からや、丘の上から眺めたとき、前回来たときよりもさらに広く海が埋め立てられ、着々と工事が進んでいることを知らされた。私たちが忘れているときでも沖縄を取り巻く問題はさらに深刻になっている。近年は日本最西端の与那国島(よなぐにじま)にも地対空誘導弾(ミサイル)部隊の配備が計画されており、島の人々の不安も大きくなっている。
今年はもう復帰50年という節目が過ぎてしまったが、日本に沖縄が返還された時点に立ち返って、そのときの問題点や復帰までの道のりこれからもを考え続けることに意味があるのではないか。米軍基地は今もある。返還時の様々な矛盾を沖縄は引きずったままだ。
そして考えるたびに脳裏をよぎる。沖縄が本当に日本に復帰したと自信を持って言える日が来るのだろうかということがである。
沖縄県祖国復帰記念時計塔
大阪市此花(このはな)区は北を西淀川区、南を港区、大正区などに挟まれた場所にある。その区役所の入り口に、高さ6メートルほどの三角柱の時計塔が立つ。
塔の正面には「沖縄県祖国復帰記念 大阪此花区沖縄県人会」とあり、背後には沖縄の日本復帰の日付が「昭和四拾七年五月拾五日返還」と記されている。搭の上のクラシカルな四角い時計は、今も時を刻んでいる。本土で沖縄の日本復帰を記念する碑は、この時計塔だけだ、と言われている。
沖縄出身者が多く住み、沖縄料理の店も多かった此花区。かつては区の人々にとってのシンボルともいうべき存在だったが、今は立ち止まる人も殆(ほとん)どいない。この時計塔は、沖縄の日本復帰を願いながら、波乱の人生を生きた故・屋良朝光(やらちょうこう)が中心になって建立した。
屋良は昭和2年に沖縄県宜野湾(ぎのわん)村中原(現・宜野湾市)に生まれ、12歳で大阪に出て来た。やがて27歳で運送業を始め、沖縄出身者を雇い、本土復帰運動に奔走した人物だ。平成25年に86歳で死去したが、晩年には沖縄県出身者の支援や沖縄文化、特産品の普及に尽力したことが評価され、沖縄県の功労者に選ばれている。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。