2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い
澤宮 優Yu Sawamiya
大阪で父の跡を継ぎ運送業を経営している屋良の息子・朝夫は言う。
「父は沖縄の日本復帰をとても喜びました。復帰運動のデモに参加したり、かなり精力的に活動していましたから。私も子供の頃、父に連れられてデモに参加した記憶が断片的に残っています」
屋良の故郷の村は普天間(ふてんま)基地の滑走路になって、もう存在しない。しかし戦前は70軒ほど民家があり、近くを松並木のある普天間街道が走っていた。その街道筋に屋良の家はあり、大通りに面した立地に家を構えていたことが、彼の大きな誇りだったという。
屋良は昭和15年に本土でリン鉱石を加工する会社などに勤めたが、苦労の連続だった。電話を取っても相手の早口の大阪弁が聞き取れず、先輩に「ハンマー持って来い」「ネジ廻し持って来い」と言われても、道具の名前すら初めて聞くものばかりだった。
やがて戦火が酷(ひど)くなり、昭和19年に広島の海軍潜水学校に志願する。特攻兵器の人間魚雷の搭乗員になる筈(はず)だったが、広島に原爆が投下され、特攻どころではなくなってしまった。彼の部隊は急遽(きゅうきょ)爆心地へ救護に駆けつけねばならなくなったのだ。
彼は死体焼却の場で、もだえ苦しみ抜いて死んだ者や黒焦げになって原形をとどめていない死体など、原爆の悲惨さを目の当たりにした。
さらに衝撃だったのは、沖縄戦に巻き込まれた祖母が、ガマ(鍾乳洞)の中で死んだことである。
昭和20年4月に米軍が沖縄本島に上陸したとき、祖母を含む50人ほどの村民は日本兵とともにガマへ逃げ込んだ。ガマを取り囲んだ米兵は「食料も水もあげるから出て来なさい」と何度も投降を呼びかけたので、住民たちはガマから出て行こうとしたが、日本兵がそれを許さなかった。やがてガマは爆破され、全員が死んだ。集団自決したのか、米軍が爆破したのか真相はわからない。
屋良はその事実を息子である朝夫にすら語りたがらなかったが、いざ口を切ると涙を流しながら話してくれたという。
戦争は終わったが、沖縄は米国の統治下に置かれ、日本ではなくなった。以来、祖国復帰こそが、屋良の一番の願いとなった。
昭和25年、彼は大阪で運送業を始める。運送業を選んだのは、学歴を必要とせず、腕一本で稼ぐことができるからだった。最初は三輪自動車を使ったが、その車の荷台には「沖縄を返せ」「沖縄県復帰」と書いたムシロを引っかけて走った。依頼元の業者からは「うちは沖縄の宣伝をするためにお宅に金を払うとるんやない」と叱られたが、彼はそれをやめなかった。
自分は日本のために軍隊に志願し、一生懸命に国に尽くしたのに、なぜ沖縄は本土から切り離されたのか。沖縄が日本に戻るのは当然ではないか、という思いがあったのである。
さらに、平和憲法を持つ日本に復帰すれば、沖縄から米軍基地がなくなる、という希望もあった。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。