2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い
澤宮 優Yu Sawamiya
この軍曹は、アメリカ軍の軍法会議で死刑判決を受け、本国での上訴審でも死刑判決が下るが、その後重労働45年に減刑され、最終的には仮釈放された。あまりにも理不尽な結末だった。東は目を赤くして語った。
「先生から詳しく教えてもらって、6歳の女の子が暴行されて海岸のゴミ捨て場に放り投げられていたと聞きました。米軍は紳士的だと聞いていたから、大きな衝撃でした。僕は現場を見ていませんが、なぜか頭の中で彼女が見える思いがするのですよ。唇を嚙みしめて雑草を握っている姿が……」
さらに米軍から裏切られる出来事が続く。昭和34年には石川市(現・いるま市石川)宮森(みやもり)小学校とその付近の民家に米軍ジェット機が墜落し、死者17人(うち児童11人)、重軽傷者200人余を出す大惨事を起こす。このとき東は小学5年生だったが、高校生になってからその実態を知ることになる。
教室に忘れ物をしたので戻ると、担任の教師が机に白黒写真を広げている。それは宮森小学校の墜落事故の現場写真だった。教師は慌てて、見たことを誰にも言うなと念押しした。
「先生はカメラを持っておられて、そのカメラで誰かが撮ったのでしょう。全身にやけどを負った人の姿、壊れた校舎、煙がたくさん出ている光景、生々しい写真ばかりで、こんなに酷(ひど)い事故だとは知りませんでした」
それから東の中でも米国を歓迎する気持ちが薄れてゆく。彼は職場の労働組合や青年団を通して日本復帰運動、反基地運動に目覚めてゆく。
20歳のとき、彼自身も米軍の被害に遭っている。職場へ行くため、ホワイト・ビーチ付近の道を歩いていると、米軍兵の運転する4トントラックに撥(は)ねられる。前方にいた2台の車を越えるほど飛ばされたから、酷い事故である。米兵は居眠り運転をしていたという。
その若い米兵が近付き、倒れた彼をトラックの荷台に乗せようとする。そのとき近くの住民たちは、米兵が東をホワイト・ビーチの海に捨てると思い、指笛で危機を周囲に知らせた。
当時は電話が少なかったので、事故などは指笛の吹き方で知らせる風習ができていたのである。たちまち多くの住民が集まる。東は回想する。
「一命はとりとめましたが、かなり酷い怪我(けが)でした。病院でも胸を撮るレントゲンしかないので、腰や首の詳しい状態はわかりません。医者も手の施しようがなかったんです」
そのため彼は今も腰や首の頸椎の痛みに悩まされている。彼を轢(ひ)いた米兵は逮捕されず、その日のうちにベトナムに弾薬を運ぶために軍用機で出国したという。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。