よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い

澤宮 優Yu Sawamiya

日本復帰を願って
 屋良が運送業を営んでいた当時、此花区で旅行業を営んでいた嘉手川は、昭和58年に沖縄料理店を出そうと考える。当時の大阪には本格的な沖縄料理店はなかった。沖縄の料理を知ってもらうことは、本土の人たちに沖縄文化を伝えることにもなる。沖縄出身者には、泡盛(あわもり)を呑み、郷土料理を食べて元気を出してもらえれば、とも思った。しかし、店を出す金がない。
 銀行もある程度の資金を貸すと言ってくれたが、保証人と担保がいる。担保のため頼るのは屋良しかいない。彼の会社を訪ねると、屋良は財産目録なども見せてくれて、ここから選ぶようにと言ってくれた。おかげで嘉手川の料理店は開店にこぎつけ、マスコミも多く取り上げてくれ繁盛した。
 同郷のために惜しげもなく援助する一方、屋良はお金の扱いには厳しかった。嘉手川は、屋良からもお金を借りていたが、返済日を忘れて、その翌日になってから屋良のもとを訪れたことがある。
「人から金借りたら、無くてもあっても返済日に来て、謝るか払うかしないと駄目だ。翌日当たり前な顔して忘れてましたで世の中通るか」
 そう言われて嘉手川は屋良に1か月絶交された。
「ワンカラ カタルジン イチ ケースガ(自分から借りたお金はいつ返すのか)」とウチナー口で屋良に言われたこともある。
 それは「ヘーク モーキリ ヨーヤー(早く儲〈もう〉けろよ)」という励ましの意味であり、話の最後は「シワサンケー(心配しないでいい)」であった。
 屋良は沖縄の本土復帰前に「沖縄復帰 日本青年会」の初代会長も務めている。昭和44年の日米共同声明で、念願の沖縄の本土復帰が昭和47年に決まると、彼はさっそく記念碑の時計塔建設に動く。自らも資金を提供し、さらに会社、個人宅を回って寄付金を募った。時計塔にしたのは、派手な祝賀会を催すよりも、いつまでも残るような有意義なことをしたい、という彼の願いからだった。費用は当時の金額で180万円。現在なら1000万円弱くらいか。このとき、屋良は40歳代半ばだった。
 ただ、悲願の日本復帰が実現されたとはいえ、米兵による暴行など、沖縄は多くの問題を抱えたままだった。屋良は騙(だま)された気持ちにもなっただろう。嘉手川は語る。
「あれだけ復帰運動をされていた方だから、余計悔しかったと思います」

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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