2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い
澤宮 優Yu Sawamiya
時代は移り、平成8年に普天間基地の返還が日米で合意され、屋良も自分の故郷が戻って来ることをとても楽しみにしていた。しかし交渉は進展せず、普天間基地は同じ沖縄県内の辺野古へ移設されることが決まった。結局基地は県内でたらい回しにされるだけである。
息子の朝夫は言う。
「普天間飛行場が辺野古に移設されることには、相当複雑な思いがあったでしょう」
屋良の先祖は、生活苦のために借金で土地を何度も担保に取られるという辛酸を舐(な)めている。そのたびに祖父や父が働いて、土地を取り返してきた。自分の土地を守り抜いた歴史が家にはある。それだけに、普天間基地になった土地を取り戻し、もう一度住みたい、というのは屋良の悲願だったのだ。
30年ほど前、屋良は父親と朝夫を連れ、普天間基地に入らせてもらったことがある。朝夫にはただの広い滑走路にしか見えなかったが、父と祖父は子供のように瞳を輝かせ、ここが家のあった場所だ、と感激していた。その興奮した様子に、朝夫は父と祖父の故郷への思いを実感したという。
だがその願いが叶(かな)うことはなく、彼は世を去った。沖縄の日本復帰を心から願い、現実が望んだものと違っても、沖縄のために奮闘し、若者の面倒を見て、沖縄が本当に本土と同じになれるよう願い続けた一生だった。彼の心からの願いが、時計塔の文章に刻まれている。
〈太平洋戦争に於て、沖縄県は、島ぐるみ戦場となり、十五万県民が犠牲となった。その上、二十七年間に亘り異民族支配の苦難を強いられた。
沖縄県民をはじめ、全国民の熱望により一九七二年沖縄県の祖国復帰の宿願が達成された。この喜びと二度と戦争がなく、永久の平和を祈念して、此花沖縄県人会と此花区民他有志一同によって、この時計塔が建立された〉
今も時計塔は毅然(きぜん)として聳(そび)え立ち、沖縄の人々の平和を祈り続ける。朝夫は語る。
「時計塔は父たち、そして沖縄にルーツのある者の精神的支柱なんです。父の思いの詰まったこの搭を次世代にも引き継がなければならないですね」
時計塔が作られて、もう何度の5月15日を迎えただろうか。立ち止まる人が少なくなったとはいえ、この日だけは今でも多くの人が塔の前に立つ。刻まれた碑文の文章を読み、祈りながらその内容を嚙(か)みしめていることだろう。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。