よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い

澤宮 優Yu Sawamiya

祖国復帰闘争碑と「青い海」
 沖縄が日本に復帰する前年、昭和46年の4月に刊行されたのが「青い海」(おきなわ出版、後に青い海出版社)という月刊誌である。創刊したのは、琉球新報社から独立した津野創一(平成4年、55歳で没)。彼が34歳のときだった。沖縄の歴史、文化、民俗を取り上げ、沖縄学を描いた「沖縄についての大衆総合誌」である。昭和60年9月、145号をもって終刊したが、沖縄問題を多方面からとらえた役割は大きい。
「青い海」の内容は沖縄の日本復帰、復帰後の深刻な問題と深く関わる。編集者だった小渡照生(おどてるお)は、復帰前後の誌面も担当している。彼はその頃を回想する。
「当時新聞では、沖縄復帰と呼んでいましたが、沖縄ではそうは言っていませんでした。祖国復帰とか、日本復帰と言いました。この違和感は何なのでしょう。沖縄返還という呼び方もありますが、呼ぶ人の立ち位置がどこにあるかで呼び方が違ってくる感じがします」
 言葉一つとっても、沖縄の日本への復帰については言い方が違う。そこに今も米軍基地など様々な矛盾を内包している沖縄の現状が見てとれる。
「沖縄の日本復帰のときは、米軍基地を撤去させてほしいという要望がありましたが、結局基地はそのままで復帰されることになりました。これから沖縄はどうなってしまうのか不安はありましたが、生活への不安はあまり無かったんです。その前からかなりの人が内地に行って仕事をしていましたからね」
 沖縄の日本復帰と同様に忘れてはならないのが、奄美(あまみ)群島の処遇である。奄美群島は鹿児島県に属するが、明らかに沖縄の文化圏にある。
 かつては琉球王国に属していたが、1609年に島津(しまづ)藩が琉球侵攻を行い、直轄支配にしたまま今日に至っている。
 奄美群島も戦後は米国の統治下に置かれたが、昭和28年に鹿児島の一部という扱いで日本に復帰する。以降は、奄美群島の与論島(よろんとう)と沖縄本島との間にある北緯27度線が日本の国境になっていた。
 沖縄が日本に復帰するまでは、辺戸(へど)岬(国頭村〈くにがみそん〉)と与論島とは、夜に大焚(た)き火を灯(とも)しあって互いの交流を結んだ。奄美大島での取材が、小渡の思い出に残っている。
「沖縄が日本に復帰する前、作家の島尾敏雄にインタビューするために奄美に行ったんです。奄美の行政区分は鹿児島県ですが、文化的には沖縄の影響を受けています。だから奄美の人たちは鹿児島とも沖縄とも言えない複雑な気持ちを抱えていると知りました」
 島尾に取材したとき、小渡は学生時代の出来事を思い出していた。彼は高校を卒業後、国費留学生として長野県松本市の信州大学で学んだことがある。前もって手配された下宿屋へ行くと、曖昧な理由で入居を断られた。真意はわからないが、自分が沖縄の人間だったからなのかと思う。信州大の新入生名簿では彼は海外からの留学生扱いになっていた。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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