2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い
澤宮 優Yu Sawamiya
沖縄の若者を支えて
昭和40年代になると、彼の運送会社は約40台の車を持つまでに大きくなる。屋良は積極的に沖縄出身の若者を雇った。同朋意識の強い屋良は、警察に補導された沖縄の青年がいると、率先して身元引受人となった。
本土に行けば生活できると思って出て来ても、現実は厳しく、挫折する者は多かった。当時沖縄から出て来た若者の多くは無口で、本土の人々の前では気後れしていた。言葉の壁が重くのしかかっていたのだろう。いろんな経緯で引き取った若者は130人を超えた。
朝夫は往時の父の印象を語る。
「僕が小さい頃は怖かったですよ。若いときから肉体労働をやっていたから、体はゴツかったですわ。やんちゃな子も使っていましたし、彼らに一目置かれるくらいの腕っぷしもないと、社長は務まらないですからね」
大阪府沖縄県人会連合会会長の嘉手川重義も屋良をよく知る一人である。
「彼はもともと腕白な人なんですよ。警察のお世話にもなっている。だけど故郷の子への面倒見の良さは凄(すご)いのです。大阪府警もそのことを知っているから、警察に行くより、屋良さんの所に連れて行ったほうが彼らのためになると考えて、連れて来たんです」
そんな彼らを警察から譲り受けると、寮に泊まらせ、運転助手として雇った。しかし屋良の思いも虚しく、引き取って小遣いを渡すと翌日に行方がわからなくなる者もいた。それでも屋良は、引き受けることを厭(いと)わなかった。
あるとき、警察から引き受けた若者にさっそく車の運転をさせたが、当時の沖縄では車は右側通行だったため、本土の左側通行に慣れておらず、市電を右から追い越して再び警察に呼ばれてしまった。
警察は叱る。
「お宅の会社は運転手にどういう教育をしているのや」
働かせていた若者の一人が、電車に飛び込んで自殺したこともあった。屋良は沖縄から彼の親を呼んだが、病院代、火葬代、電車を止めた賠償金、電車の洗浄代と目が回るほどの金額の請求が来た。親にはとても払えないので、同郷の誼(よしみ)で彼が支払ったという。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。