よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

2. 本土復帰はしたけれど ──二つの碑文に込められた思い

澤宮 優Yu Sawamiya

 この碑は、沖縄が日本復帰を果たした4年後の昭和51年4月28日に作られたが、4月28日は、昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効された日である。以来、昭和47年5月の日本復帰まで、沖縄は長らく米国に統治される日々が続いた。そのため、今でも4月28日は沖縄にとって「屈辱の日」と呼ばれている。この碑が喜びや勝利のために作られたものではないことの意味が伝わる。今も沖縄は政治の不条理と戦っている。
 サンフランシスコ講和条約締結以来、沖縄では公然と日本復帰を口にすることは米国の監視もあり憚(はばか)られたが、徐々に祖国復帰への声は高まっていった。その一つが、昭和35年4月28日に結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)である。沖縄県教職員会、沖縄青年団協議会らによって作られた組織で、以降沖縄の日本復帰運動に中心的な役割を果たすことになる。
 だが念願の日本復帰が果たされても矛盾だらけで、米軍基地撤去の約束は守られず、裏切られた形での復帰実現になってしまった。そこに祖国復帰闘争碑の大きな意味がある。
 碑文を作成したのは、復帰協の第3代会長の桃原用行(揮毫〈きごう〉は復帰協第6代事務局長の仲宗根悟)である。碑の建立に立ち会った、沖縄県青年団協議会で復帰運動を担った東武は桃原や仲宗根とも交流が深かった。東は言う。
「復帰協の会長や事務局長は長い間、厳しい戦いをしましたからね。復帰前には活動を理由に我々は合衆国から渡航禁止される仕打ちも受けました。そんな経緯もあったので闘争碑を建てたんです」
 桃原は碑文を作成するとき、さんざん考え抜いたが、プレッシャーもあり文言が浮かばない。悩んで円形脱毛症になり、胃も痛んだ。もう断ろうと思った矢先である。玄関で靴ひもを結んだ一瞬に、言葉が閃(ひらめ)いた。これだ! と感じた桃原は、すぐに部屋に戻って一気に書き上げた。それが碑の情熱的な文章である。
 そんな事情を知る昭和22年生まれの東も、米軍に翻弄された一人である。
 うるま市勝連平敷屋(へしきや)の自宅近くに米軍港湾施設のホワイト・ビーチがあった。米軍の音楽隊の制服も格好よく、クリスマスになると基地に小学生が招待され、プレゼントをもらい、ごちそうもしてくれる。子供の頃の東もそんなイベントを楽しみにしていた。それが彼らの表面的な姿に過ぎないことを知ったのは、昭和30年の米兵による6歳の幼稚園児への強姦殺人事件である。
 嘉手納(かでな)幼女殺害事件と呼ばれ、嘉手納町の米軍基地近くの海岸のゴミ捨て場で幼女の遺体が発見された。遺体の下腹部は切り裂かれており、米陸軍の軍曹が幼女への犯行に及んだことがわかる。琉球立法院は「鬼畜にも劣る残虐な行為」と抗議の表明を行い、容疑者への厳罰を求め、沖縄での反米感情は一気に高まった。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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