よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

6.普天間飛行場は戻ってくるのだろうか?

澤宮 優Yu Sawamiya

 地図へのこだわりはそのままかつての村への郷愁に繋(つな)がる。玉那覇は語る。
「字宜野湾は、伝統があって、村でも中心の地域だったんです。役場や郵便局、学校などすべてがこの地にありました。そんな自分たちの村の伝統を守りたいというのが、私たちの先輩たちの強い意思でした。先輩たちの思いを引き継ぐために聞き取りをして、集落の記録を残すことにしたんです。それが第一にありました。若い人には宗教的な匂いがするかもしれませんが、綱引きなどの伝統行事も継続することに意味があるんです」
 玉那覇に記憶を尋ねると、ここですと言って、地図にある自分が住んでいた家を指さした。
「私はこの家に小学校2年まで住んでいたんです。200坪はありました。ここから宜野湾国民学校に通っていました。貧しい生活ですが、平和でのどかな農村でした」
 宜野湾は農村で、都を思わせる碁盤の目のような道が整然と作られていた。家には台風対策のためにガジュマル、琉球松、アカギなどが建物を覆うように植えられていた。森の中に家がある感じがしたという。
 その中で村での大きなイベントは闘牛である。沖縄は闘牛がさかんだが、戦前には字普天間以外にはどこにも闘牛場(ウシナー)があった。最初は製糖場や馬場などで行われていたが、明治30年ごろに闘牛場が作られた。農耕と密接な存在として牛がいたから、強い牛が好まれたのだろう。
 現在字宜野湾にも普天間飛行場のフェンスの傍に闘牛場の跡地がある。天然のすり鉢状の作りをしているため、観戦するには絶好の形であったという。宜野湾村では、昭和16年から闘牛大会で入場料をとるほど盛んになったが、戦争が激しくなると中止される。
 一年でもっとも大きなイベントが字宜野湾で行う綱引きである。綱引きは他の字でも行われていたが、字宜野湾のそれは「ジノーンの綱引き」と呼ばれ、勇ましさで知られていた。綱引きは旧暦6月15日のウマチーと呼ばれる麦や稲に感謝をする祭りの夜に行われる。それまで字の青年たちは全長が30メートル、太さ50センチほどの巨大な綱を雄綱と雌綱の2本作る。祭り当日は、青年たちはそれぞれの綱を持って林や松の間、村の道を練り歩く道ジュネーを行う。宜野湾街道の傍に馬場があり、そこが会場だ。
 少年だった玉那覇も、綱を持つ行列に灯籠を持って参加した。
「字の北と南が対抗する形で行います。勝負は一回です。女性も入ります。勝ったほうの綱を皆で高く掲げて歩き回るんです。それで終わったら綱を一か所に集めて皆で車座になって、敵味方関係なく三線(さんしん)を弾き、談笑しました」
 しかし各地で行われる綱引きも、昭和16年を最後に戦争のために中止された。昭和20年2月には綱引きの行われた宜野湾の並松(なんまつ)の多くが日本軍に切り倒された。米軍が上陸して、戦車で進んできたとき、倒した松で侵攻を遅らせるためである。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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