よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

6.普天間飛行場は戻ってくるのだろうか?

澤宮 優Yu Sawamiya

米軍が上陸した!
 このころには日本軍が戦車隊を駐屯させ、学校や民家を接収して兵舎として利用し、料亭、公民館、大きな民家は兵隊の慰安所となり、慰安婦の女性が集められる。地域の大人たちも軍のための徴用を命じられた。
 3月になると近いうちに米軍が上陸しそうだという情報が流れたので、玉那覇は一家でガマに避難することになる。ガマとは沖縄本島南部に多く見られる石灰岩で作られた鍾乳洞で、本島に約千あり、彼の自宅の傍にも大きなガマが7つあった。
 これらのガマを整備して人が住めるようにし、地域の村の人たちで場所の割り当てをし、ガマで生活することになったのである。玉那覇の家族は「松川」というガマに入る。
 玉那覇は3月末には松川のガマに逃げたが、米軍は本島の西の慶良間(けらま)諸島に上陸し、海上からの艦砲射撃は始まっていた。ふだんはガマに潜んでいるが、親たちは自宅に食べ物の炊き出しに行って、作った食事をガマに持ってゆく日が続く。
 4月1日、米軍は本島に上陸する。読谷(よみたん)、北谷から侵攻し、翌日には宜野湾村の北まで迫った。ここで日本軍は首里にある司令部を守るために激しく抵抗する。至る所に地雷を埋め、米軍に出血を強いる。さらに速射砲で迎え撃ち、また爆雷を抱えた日本兵が敵戦車のキャタピラに向かって突進する肉弾攻撃を行うなど、決死の反撃を見せた。米兵の戦死者も多く、戦車もこの戦闘で沖縄戦で最大の損失となる22輌を失う。
 これが日米最後の本格的な組織的戦闘となる。しかし16日間の抵抗もむなしく、物量に勝る米軍に惨敗し、兵隊は南部の浦添方面に逃げるしかなかった。このとき字嘉数(かかず)の住民の半数以上の374人が戦闘に巻き込まれて亡くなった。他の多くの字でも住民が犠牲になった。
 玉那覇は真っ暗なガマに何日いただろうか。射撃の音も激しくなるばかりだったが、ガマには食料がないので、父親は炊き出しのために外に出ていた。食料をガマに持って戻るとき、砲弾の破片が背中に命中した。命は取り留めたが、治療もできずに、痛みに唸りながらガマで過ごすしかない。背中の傷は化膿(かのう)し、膿(うみ)が出ていたという。
 母親も乳飲み子を抱えていたが、砲撃も激しくなり外に出ることも危険になった。煮炊きができなくなると、砂糖を水に溶かして飲むしかなくなった。
 そのとき、ガマの外で米兵からの「出てきなさい」という呼びかけがあった。返答しないでいると、米兵は銃を構えてガマに入って来た。一人一人顔を見せろと言う。この中に日本兵が紛れ込んでいないか確かめるためである。
 このとき布団を頭から被(かぶ)って顔を出さない日本人がいた。小学校2年生、その母親、祖父の家族3人である。怖くて布団を被っていたのだろう。米兵は、反撃しようとしていると思ったのか、その場で射殺した。もう一人若い男が逃げようとガマの入り口に駆け上がったが、彼も銃で撃たれ即死した。撃たれたとき、血が一気に飛び散った。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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