よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

6.普天間飛行場は戻ってくるのだろうか?

澤宮 優Yu Sawamiya

 基地内に入る手続きは細かい。2か月前に米軍に許可願いを出し、その際に入構者の全員の名簿の提出を義務づけられる。対応はとくに厳しくはないが、「私のように米軍基地反対を前面に押し出すと厳しく対応されるときもある」と郷友会会長の松本は苦笑する。
 伝統行事ひとつ行うにも、それは米軍基地の存在と関わってくる。それにも拘(かかわ)らず、宜野湾の人々は以前から戦前の村をにぎわした綱引きを復活させられないか考えていた。
 もう宜野湾街道も、並松もないが、場所を変えれば綱引きはできるはずだ。それを若い人にも伝えたい。年数が経(た)つたびに、綱引きを体験した人も少なくなる。そんな思いから66年ぶりに復活に漕ぎつけたのが、平成19年7月29日である。
 綱引きは、字宜野湾以外では、字大山(おおやま)や字真志喜(ましき)の二か所で続けられているが、他の字ではもうやっていない。
 復活の弾みをつけたのは市民による演劇である。若い人は綱引きの存在は、かつてあった行事、程度にしか知らない。ところが平成18年に宜野湾市教育委員会主催の市民劇が上演されて、動きは一変する。創作市民劇「じのーん産泉」は、かつての宜野湾の産泉を舞台に、村に伝わる民俗芸能と村人の温かい交流を描いた。そこに村の綱引きの場面が出てきたことで、参加者はその力強さ、熱気、村人の交流に魅了され、ぜひ復活したいという声が多く寄せられたのである。このとき頼りになるのは実際に綱引きの細部を知る年配者だ。若い世代は、区の長老から何度も聞き取り調査を行い、実際に肉声を聞くことで、知識だけではない伝統行事への熱い思いも知ることになる。
 当日は夕方18時半に2つの綱(雄綱と雌綱)が皆に担がれて、道を練り歩き(道ジュネー)、会場の沖縄国際大学のグラウンドまで行く。そこには観客は数千人も集まっている。綱引きを行うまでには昔からの儀式がある。長老に習ったように、雄綱、雌綱を結合させて一本の長い綱にする。それから綱の双方に、大人も子供も綱を持ち、互いににらみ合う。真夏の夕方だが、皆が汗びっしょりになって掛け声を出しながら、力を振り絞って綱を引く。
 勝負は互いに譲らず大熱戦となったが、ついに雄綱が勝利した。そこから儀式に沿って、勝ち綱を皆で持ち上げてグラウンドを駆け回った。老いも若きも一体になって在りし日の宜野湾の光景にモノクロームで戻ったような時間だった。
 戦後になって宜野湾に新しく住んだ人々も、戦前からの伝統行事に参加したことで、ようやく「ジノーンチュ」の一員になれたと言って喜んだ。
 宜野湾郷友会は自分たちの故郷を立体的な地図で再現できないかという試みを持っている。平成25年からジオラマにするための取り組みが始まるが、その担当となったのが、宮城政一と副会長の泉川寛栄である。宮城は昭和18年12月生まれ、泉川も昭和20年2月生まれで、ともに沖縄戦の記憶はない。だが二人も戦争の傷とは無縁ではない。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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