6.普天間飛行場は戻ってくるのだろうか?
澤宮 優Yu Sawamiya
いずれも玉那覇の目の前で起きた一瞬の出来事である。
その後、ガマにいた人たちは捕虜となって、今の宜野湾村の字野嵩(のだ)に作られた収容所に入れられた。人々はいくつかの収容所を転々とさせられ、昭和21年2月に再び野嵩や普天間の収容所に戻された。この間に故郷はどうなっていたのか、収容所にいた人々は知る由もない。
昭和20年6月17日普天間飛行場建設の任務が米軍部隊に指示された。米軍が日本の本土を爆撃するための出撃基地として使用するためである。すでに米軍は空中から写真撮影をして、ここは滑走路にできると考えていたのだという。郷友会会長の松本は「計画的犯行ですよ」と怒りをこめて語った。
宜野湾村の字の殆(ほとん)どが飛行場のために土地を取られたが、もっとも多く奪われたのが、宜野湾、神山(かみやま)、新城(あらぐすく)、中原(なかはら)である。とくに中原はすべての土地が飛行場にされた。
普天間、新城、神山、伊佐(いさ)の各字は一部を普天間飛行場に取られたが、人々にとって大事な拝所(ウガンジュ)は基地内にあったため、接収され、新しく移住した場所に拝所を移している。
このときまだ一部残っていた普天間街道の並松も飛行場建設と道路拡張のために米軍が電動のこぎりで次々と切り倒し、美しい並松の光景は二度と見ることができなくなった。
収容所に入れられた宜野湾村の人々は一斉に移住の許可がおりたわけではなく、字単位に徐々に解放された。もっとも早かったのが昭和21年4月の字普天間で、字宜野湾が解放されたのはこの年の10月23日である。そこから移住を始め、翌年8月上旬に全所帯が移動を完了する。ただし土地の3分の2は飛行場に使われていたから、使うことができるのは3分の1だけである。米軍司令官は字宜野湾の人たちに言った。
「君らの集落はないわけだから、近くの畑や草原で仮住まいしておきなさい」
人々は集落の顔役の指示で、土地と家を割り当てられて、住むようになった。新しい集落は宜野湾集落の一部と国道330号線の間にある場所である。人々は米兵たちが捨てたテントの切れ端などを使って小屋を作った。集落の者、皆で助け合った。自分たちで畑を作り、道を開拓し、集落を作った。それが今人々の住む住宅地に繋がっている。
玉那覇はかつての故郷の姿を目にした光景を語る。
「もう家は一軒もありませんからショックでしたけどね。でもあのころは自分の生活で精いっぱいだし、それほど懐かしむような心の余裕はありませんでした」
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。