第四話『憎しみの城(長谷堂城)』
矢野 隆Takashi Yano
途端に人面獣心の太閤は、甥(おい)である秀次がうとましくなった。謀反を企てたなどという、あらぬ罪を着せて高野山に蟄居(ちっきょ)させたうえで、腹を斬らせたのである。
関白である秀次が謀反を企むわけがない。人として最上の位である関白に猿の甥であるというだけでなれた男が、いったい誰に謀反を企てるというのか。
濡れ衣である。
猿は己が子可愛さで、秀次を殺したのだ。それだけでは飽き足らず、秀次の妻子を三条河原に引き据え、秀次の首の前でことごとく首を刎(は)ねた。
義光は必死に懇願した。駒はまだ秀次の手すら触れられていない。側室と呼べる仲ではない。どうか命だけは、と。
しかし猿は聞く耳を持たなかった。
──罪を切る弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき
駒の辞世である。罪を切る仏の刃にかかって死ぬのだから、障りは払われ往生できるだろう。そう娘は詠んで逝(い)った。
そもそも弥陀の剣に斬られるような罪が、娘にあったのか。
無い。断じて無い。
駒が死んで、すぐに妻が逝った。
十五年もの間、手元にあった可愛い娘が幸せを得るために遠い都へ旅立った。隙間風が吹く心を、娘の幸福という光でなんとか埋めていた妻にとって、現実はあまりにも苛酷であった。
駒の死を知り、妻の心は壊れた。上方(かみがた)から届いた報せを聞いた途端、悲鳴を上げて義光の元から駆け去り、自室に籠ったのである。次に見た時、妻は冷たくなっていた。
みずから冥途へと旅立ったのだ。
義光は娘と妻を同時に失ったのである。
不思議なことに、妻が死んだと聞いた時はなにも感じなかった。
無である。
妻というなにかが、どこかに去った。それがどうしたのか。そういえば娘というものもどこかに消えたという。それは大変なことなのだろう……。そんな、繰り言のような言葉が、頭のなかを駆けめぐり、そのすべてが己の想いではないような気がする。見知らぬ誰かが頭の奥に居座って囁いているのを、義光は暗い闇の底から聞いているのだ。
多くの者を犠牲にして、今の地位を築き上げた義光である。うんざりするほどの人の死を見てきた。時には妹の子と骨肉の争いを繰り広げ、時には病と偽り見舞いにきた者を斬って捨て、そうやって出羽二十四万石という広大な版図を築きあげたのだ。
人を陥れることも、嬲(なぶ)り殺すことも厭(いと)わなかったはずの義光が、娘の死によって心を折られた。よもや己が、このようなうろたえ方をするような男だったとは、義光自身思ってもみなかった。
しかし、義光は妻ほど弱くはない。戦国を生きる男である。
猿だけはなにがあっても許さぬ……。
己が身に空いた大穴を、どす黒い情念で埋め、再び立ちあがった。
駒の死から三年が過ぎ、猿が死んだ。
哀れで無様な死であった。
猿の死で晴れるような妄執ではない。
豊臣家がある限り、義光に安息は訪れない。だが喜ばしいことに、猿の死によって、豊臣家が揺れている。その中心には、徳川家康がいた。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。