第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』
矢野 隆Takashi Yano
「すでに皆、敵の到来に備えております。義経様も急ぎ戦の御仕度を」
今頃になって気付いたが、弁慶は僧衣の上に甲冑(かっちゅう)を着こんでいた。
「相わかった」
うなずき、義経はどこまでも忠実な家人に問う。
「して弁慶よ。泰衡と戦って、なにをどうするのじゃ」
「は」
僧形の荒武者が呆(ほう)けた声をひとつ吐いて、主を見上げた。
義経は問いを重ねる。
「臆病な泰衡殿のことじゃ。御主たちや我の武勇を恐れ、十分な兵を集めておるであろう。兵数の差はどうすることもできまい。で、我等はなんのために戦うのじゃ」
「このような時のために、かねてより吉次殿と示し合わせておりまする」
毅然とした態度で弁慶が答えた。義経は黙したまま、忠実な郎党の言葉を待つ。
「まずは北へ御逃げくだされ」
「北に逃げて如何する」
すでに弁慶の言葉には、己のことはなかった。義経を逃がすため、この地で死ぬつもりなのだ。
「まずは北上川を渡り大股(おおまた)、世田米(せたまい)、宮古(みやこ)へ進み、八戸(はちのへ)を目指しまする。八戸から津軽(つがる)へ、津軽から海を渡り蝦夷ヶ島(えぞがしま)へ渡られませ」
弁慶には明確な道程が見えているようだった。本当に吉次と話しあっていたのだろう。
「蝦夷ヶ島へ行って如何する」
「蝦夷ヶ島には蝦夷でも無き者等が住んでおると聞き及んでおります。其奴等(そやつら)を従え、再び陸奥に戻り、再起を図るのです」
「ふむ」
ちいさくうなずく。
蝦夷ヶ島で力を付けて再起を図る……。
面白い。
「承知した」
義経がうなずくのと、塀のむこうから喊声(かんせい)が聞こえてきたのは同時だった。
「これより拙者(せっしゃ)は衣川にて、対岸の敵を迎え撃ちまする。一兵たりともこの館へは近づけませぬ故、その間に義経様は御逃げくだされ」
「わかった」
「それでは義経様」
弁慶の目が潤んでいる。この男は涙もろい。感情が昂(たか)ぶるとすぐに泣く。
「頼んだぞ弁慶」
「面白き日々でござりました」
言って大男は鼻を啜(すす)った。
「義経様に御仕えすることができ、幸せにござりました」
今生の別れ。
義経はただ黙ってうなずいた。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。