よみもの・連載

城物語

第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』

矢野 隆Takashi Yano

 頭のなかでどれだけ思考を巡らせてみても、それは肉を持たない観念でしかない。泰衡を無能呼ばわりし、殺すのならば殺してみろと心につぶやいてみても、冷たい刃が喉に迫ることはないのだ。どんな困難も弁慶たちが守ってくれる。己は源家の子息、源九郎判官義経なのだ。何人(なんぴと)たりとも殺せはしない。
 たとえ兄であっても……。
 そうだ。
 あの兄のせいだ。
 義経の武功のすべてを横から掠(かす)め取り、武士の棟梁であると鎌倉でふんぞり返るあの男のせいなのだ。
 頼朝が生きている限り、義経の行く末は開けない。
「そうじゃ、逃げるのじゃ」
 ひとつきりの灯明に照らされた室内に、娘と妻の顔が浮かぶ。義経の目は二人を見ていない。考えているのは己のことだけだった。
 弁慶は逃げろと言った。吉次が万端手筈を整えていると言ったではないか。
 蝦夷ヶ島へ行き、そこに住む者たちを従えろと言って死んだ。
 吉次の迎えが来るまで、ここで待つ。郎党たちは持ち堪(こた)えてくれるだろうか。敵は大軍だという。迎えよりも先に敵が現れたら、義経はひとたまりもない。
 焦る……。
 四つん這いになって、じたばたと部屋のなかをうろつき回った。そんな父の姿に娘が啼(な)き声を上げた。
「うるさいっ」
 怒鳴ると、妻が厳しい目付きで義経を睨(にら)んだ。
「往生際が悪うござりますよ」
 女の冷たい声がした。
 泣きじゃくる娘を胸に抱き、妻が義経を睨んでいる。
「もはやこれまで」
「何を言うておるっ。吉次の迎えが来るのじゃ。我等はそれまで待てば良い。蝦夷ヶ島に逃げるのじゃっ。死にはせぬっ」
 恥も外聞もなく叫ぶ。母に抱かれた娘と義経の、どちらが子供かわからない。
「そうじゃ、我は死なぬ。死にはせぬのじゃ」
 立ち上がり虚ろな目で天井を見上げながら笑った。
「どうしてこうなった。なにが悪かった。そうじゃ、蝦夷ヶ島になど行くことはない。いまから鎌倉に行き兄に謝ろう。謝って許してもらおう。きっと兄は許してくれる。もはや弟でなくとも良い。頼朝様の郎党に御加えいただこう。そうじゃ、それが良い。まだか、吉次の使いはまだ来ぬか。使いが来たら鎌倉に行くと申そう。いや、やはり兄は許してくれぬ。蝦夷じゃ。蝦夷に逃げる方が良い」
 鎧(よろい)の隙間から冷たい物が滑り込み、義経の肉を貫いた。
「い、痛っ、いたっつぅ……」
 肩越しに背後を見ると、青ざめた北の方が立っていた。冴(さ)え冴(ざ)えとした瞳のなかに、苦痛に歪む己の顔が映っている。
「兄上に疎んじられてからの貴方様は、逃げてばかり」
 肉に食い込む刃が、いっそう深く義経の裡(うち)を抉(えぐ)る。
「逃げるのはもう嫌」
「な……」
 義経の目から涙の滴がひとつ零(こぼ)れる。
「何故、我が死なねばならぬのじゃ……」

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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