よみもの・連載

城物語

第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』

矢野 隆Takashi Yano

 八か月の間、義経は平泉の地で平穏な日々を過ごした。
 奥州に隠然たる力を有する秀衡を敵に回して大戦(おおいくさ)をすることを、頼朝は避けたのである。
 逃亡の旅路において生まれた娘と妻である北の方、そして郎党たちとともに、なに不自由なく暮らした。
 その間、秀衡は着実に老いていった。病が彼の躰を日々蝕(むしば)んでいることに、義経は気付きもしなかった。
 無理もない。
 鎌倉から義経を隠すためと、秀衡は平泉の己が居館の北を流れる衣川(ころもがわ)を越えた地に、義経を置いたのだ。衣川館と呼ばれるその屋敷で、義経は家族とともに平穏に暮らしていた。そのため秀衡の変化に気付かなかったのである。
 秀衡の居館である伽羅御所(きゃらごしょ)に義経が突然呼ばれたのは、文治(ぶんじ)三年十月二十九日のことであった。
「父上がいよいよどうにもなりませぬ」
 そう言って迎えに来たのは、やはり泰衡だった。いよいよもなにも、義経は秀衡の病気についてまったく聞かされていなかった。まさに寝耳に水である。しかし事は急を要する。泰衡への糾弾の言葉を呑みこんで、義経は伽羅御所へと馬を走らせた。
 病床の秀衡は義経の知る、秀衡ではなかった。骨と皮だけになり、乾いた肌がいまにもひび割れ、赤い肉がはみ出てきそうである。
「おぉ、判官殿か……」
 八か月前、義経を歓待した時には覇気が漲(みなぎ)っていた声に、いまは勢いがない。
 皮に包まれただけの骨がゆるゆると義経のほうへと近づいてくる。その先についた五本の枝が、なにかをさがすように迫って来た。
 枕元に義経は座り、老人の手を握りしめる。褥(しとね)のむこうに泰衡と、国衡(くにひら)が座す。国衡は泰衡の兄であるが、妾腹の子であるため嫡子は正室の子の泰衡であった。
「な……」
 もはや義経の顔がどこにあるのかもわからぬのであろう。白く濁った瞳は虚空にむいたまま、秀衡は乾いた声を吐く。
「な、なにも心配はいらぬ」
 この老人は己に会うと、それしか言わぬ……。
 面の皮を悲しみの形に歪めながら、義経は思った。
「平泉におれば、其方は安泰……。や、泰衡、泰衡ぁ」
 ここに、と答えた嫡男が身を乗り出す。
「国衡はおるか」
「はい」
 泰衡よりも武骨で引き締まった顔をした国衡が答えた。二人の子供の声を聞き、一度ちいさくうなずいた秀衡が聞きづらい声で語る。
「わ、儂が亡き後のことをこれより申し渡す。心して聞け」
「父上、そのような気弱なことを申されますな」
 涙声で泰衡が答える。
 この男は、この期に及んでなにを言っているのか。父がいよいよどうにもならぬといって呼び付けたのは、泰衡ではないか。父が冥途へ旅立つ覚悟はできているはずであろう。毒にも薬にもならぬ言葉を吐いてどうする。
 秀衡は息子に答えず、みずからの想いを口にした。
「儂亡き後は、判官殿を大将軍として国務せしめるべし」
「そ、それは……」
「御主たちは力を合わせ、判官殿を御支えいたせ」
 それが奥州の覇者であった男の遺言であった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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