第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』
矢野 隆Takashi Yano
弁慶を止めれば趨勢(すうせい)は一気にこちらに傾く。とにかくいまは、どんな手を使ってでもあの男を止めるのだ。名乗り合って正々堂々などと言ってはいられなかった。
泰衡の命を受け、弓を携えた兵たちが川の対岸に並ぶ。
「容赦はするなっ。味方もろとも矢を浴びせ掛けよっ」
周囲に侍る家臣たちが、一瞬戸惑うように泰衡を見上げた。味方もろともという言葉に逡巡(しゅんじゅん)しているようだ。このまま矢を射かけるということは、味方も犠牲になるのは自明である。
泰衡は家臣たちを見ずに、一言半句違(たが)えずに同じ命を下した。
隣で国衡が家臣たちにうなずいている。
対岸の弁慶にむかって矢が放たれたのは、それから間もなくのことであった。
矢の雨が弁慶に降り注ぐ。
獣の咆哮(ほうこう)が天を震わす。
周囲の兵たちがばたばたと倒れてゆく。
弁慶は……。
薙刀を右手に持ち、両腕を大きく広げたまま、立っていた。
*
弁慶が死んだ。
報せに来た者も、戦場へと取って返した。
「そうか、弁慶が死んだか……」
己が声で言葉にし、己が耳でそれを聞く。家人からの報せだけではどうしても理解できなかったのだが、みずからの声で聞きなおしてみると、ようやく少しだけ実感できたような気がした。それでも心の奥底では、いまだに弁慶が生きているような気がしている。死んだところを見ていないのだから仕方がない。閉め切られた戸を押し開き、屋敷を飛び出し衣川の河原に行けば、骸を見ることができるはずだ。弁慶の姿は戦場でもひときわ目立つ。どの骸が弁慶なのかは、ひと目でわかるだろう。しかしそれで、本当に弁慶の死を納得することができるだろうか。義経には自信がない。
鞍馬山を出て奥州に来る以前から、弁慶は義経の家人であった。義経の心根に宿る暗澹たる想いに気付いていた唯一の男であろう。本当の義経を知ってもなお、弁慶はまさしく死を賭して仕えてくれた。
が……。
心が痛んでいるわけではない。
もっとも便利な駒を失ったという喪失感が、弁慶が死んだということを認めきれなくさせていた。元よりこの戦に望むに際し、弁慶は死を覚悟していたようである。今生の別れのようなことも済ませていた。
それでも死ぬとは思っていなかった。
弁慶が己を置いてどこかへ一人で去るわけがないと思っていた。
信頼に足る駒の喪失が、義経を恐怖させる。
己は死ぬのだ。
有無を言わさぬ実感が、総身を震わせる。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。