第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』
矢野 隆Takashi Yano
平泉に辿り着くまで、考えることすらやめていたように思う。
泰衡が平泉に辿り着いたのは八月二十一日だった。その日は激しい雨と、暴風が吹き荒れていた。
見慣れた景色を目の当たりにして、泰衡はある想いに駆り立てられる。
「燃やせ」
ただただ逃げるだけの泰衡に従う者どもに、感情のない平坦な声で告げる。主がなにを言っているのかわからないといった様子で馬を走らせる者たちを、泰衡は酷薄な目付きで睥睨(へいげい)しつつ愚者どものために噛(か)み砕いて聞かせてやる。
「館を燃やすのじゃ。父や曽祖父たちが築いた柳之御所を、敵に渡すわけにはいかぬ」
「しかしこの雨と風では」
「いかなることがあろうと燃やし尽くすのじゃ。よいな」
命じ、泰衡は北へむけて馬を走らせる。
衣川を越えたら奥六郡だ。
蝦夷の地だ。
北へ逃げる。
考えがあるわけではない。
とにかく頼朝の手が及ばぬところまで逃げるのだ。
己が命を守ることだけに囚(とら)われる泰衡の心には、藤原も平泉も奥州もない。
衣川を越えるころ、背後の空が真っ赤に染まっているのが見えた。愚者どもが主の命を忠実に果たしたのだ。
何故、こんなことになってしまったのか。
泰衡は己に問う。
いったいなにが悪かったのか。義経を殺した時に、泰衡の命運は決まっていたのか。それとも、父の遺言を守らなかったのがいけなかったのだろうか。どこで踏み間違えてしまったのだ。
わからない。
答えをくれる者はすでに皆死んだ。父もいない。兄もいない。義経すらも死んでしまった。
殺したのは己だ。
義経はみずからの手で。国衡は己が道を誤った結果死んだ。遺言を黙殺した時、泰衡のなかに生きていた父すらも殺してしまった。
ここはどこだ。
一心不乱に逃げてきたから、泰衡は己がいまどこにいるのかすらわからない。平泉を焼いてから十三回、陽が沈んだ。それだけは、はっきりと覚えていた。闇が死を間近に感じさせるから、泰衡は夜を恐れた。だから幾度、夜が来たかだけはしっかりと数えている。十四日、生き延びた。
もう津軽あたりか……。
蝦夷ヶ島はまだか。
「ここは」
「出羽国(でわのくに)は比内郡(ひないぐん)、贄柵(にえのさく)にござりまする」
「そうか」
上座に据えられた泰衡の顔が曇る。
まだ津軽にさえ辿り着いていないではないか。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。