よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村

澤宮 優Yu Sawamiya

 嘉手納飛行場(アメリカの正式名称は嘉手納空軍基地)は、沖縄にある米軍基地の代表的な存在で、「不沈母艦」と称される、西太平洋最大の米軍の航空基地でもある。
 飛行場の敷地内には入れないが、基地を見渡せる場所がある。沖縄県道74号「沖縄嘉手納線」の「道の駅かでな」屋上展望台である。ここから眺める基地の印象は、果てしない平原である。
「道の駅かでな」3階にある「学習展示室」には嘉手納飛行場が作られる前の、この地にあった村の歴史を説明するパネルや年表、地図が飾ってある。写真の光景から戦前の農村の息吹や工場の活気など、生き生きした様子が伝わってきた。
 沖縄では琉球王国の行政区分を明治以降も維持したので、独特の呼び方が残っている。郡や市にあたる区分が「間切」で、それに属する「字」は村や町に該当する。嘉手納飛行場は、嘉手納町、沖縄市、北谷町、那覇市にまたがっているが、中でも最も大きな面積を占めるのが嘉手納町である。戦前は北谷村の一部だったが、昭和23年に嘉手納村(昭和51年に町に昇格)として独立した。嘉手納、兼久(かねく)、久得(くどく)、国直(くになお)、野国(のぐに)、野里(のざと)、水釜(みずがま)、屋良(やら)など13の字から成り立つ豊かな農村地帯だった。現在は嘉手納町の83パーセントが基地で、残りの17パーセントの狭い場所に、嘉手納飛行場に住処を奪われた人々が集まって生活している。
 この地域は沖縄本島の中心部にあるため、戦前は県営鉄道嘉手納線、国頭(くにがみ)街道が走る交通の要衝として栄えていた。県立農林学校や青年師範学校、警察署、沖縄製糖株式会社嘉手納工場などがあり、北部には沖縄本島でもっとも長い川の比謝川(ひじゃがわ)が流れ、河口には汽船が出入りしていた。「沖縄八景」に数えられる風光明媚(ふうこうめいび)な土地でもあり、県内の至るところから人々が観光に訪れた。
 嘉手納の歴史を辿(たど)り、その歴史ある故郷を飛行場に奪われた人々の思いに触れることで、庶民の犠牲の上に成り立つ米軍基地、という事情について考えたい。

士族のエイサーを守る
 現在の嘉手納飛行場は、昭和19年9月に作られた日本陸軍沖縄中飛行場が原形になっている。その背景には太平洋戦争を巡る沖縄の位置づけの推移がある。それまでの沖縄は平和で島に軍備も少なく、安全な場所とされていたが、転機が訪れたのは、昭和17年のミッドウェー海戦での日本の敗北であった。日本は制空権、制海権を次第に失ってゆき、これまで広げた戦線を縮小し、制空権を奪回したいと考えていた。その航空基地に最適な場所が南方戦線に近い沖縄と台湾だった。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

Back number