よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村

澤宮 優Yu Sawamiya

 昭和19年ごろから、沖縄本島だけでなく、伊江島や宮古島など10数か所で飛行場が作られる。同19年3月には南西諸島を防衛するための第32軍が作られ、大部隊が沖縄諸島にやって来た。公民館や学校などが兵舎に使われることになった。食料や農耕用の牛や馬も徴発される。その年の7月、絶対国防圏であるサイパン島が陥落し、次に沖縄が攻撃されることは確実になった。
 そのような深刻な状況の中で、日本陸軍はこの地に飛行場を建設したのである。しかし米軍の攻撃は迅速で、昭和20年3月26日に慶良間(けらま)諸島に上陸、4月1日には本島の読谷村、北谷村に上陸した。この地には日本軍の北飛行場、中飛行場があったからである。
 米軍は中飛行場を占領すると、整備拡張を行い、面積を約40倍に拡大して嘉手納飛行場に作り変えた。その広さは東京都品川区の面積と同じで、9割以上が、住民の私有地を接収して作られた。土地を奪われた地主は1万1千人を越える。
 このとき土地を奪われた人々は、その後離れて暮らしていても、今も「字」ごとに集まり、行事も行うなど、かつての共同体意識が生きている。それを端的に示す制度が「郷友会(きょうゆうかい)」という組織である。これは沖縄や奄美諸島などの琉球弧(※奄美大島から沖縄、台湾までの弓状に連なる島々のこと)に見られる独特の共同体組織である。
 琉球弧の人たちは、出稼ぎや転居などで、自分たちが生まれた村から離れて暮らすことが多い。そのため同じ村落や集落出身者が複数いる土地において、相互扶助などのために自発的に作った組織が郷友会である。那覇市には、沖縄本島の各地から移住した人たちや、離島出身者たちが、同じ出身地で固まって作られた郷友会が多数存在する。東京や大阪などの大都市や、内地の各都道府県にも会は存在する。
 郷友会は主に昭和30年代ごろに作られ、昭和50年代には沖縄本島だけでも400以上が存在したという。郷友会では、運動会や敬老会などを実施するほか、成人式や入学祝いなども合同で行うことが多い。
 嘉手納や宜野(ぎの)湾など、故郷を基地に取られた集落は、字単位、町単位で郷友会を組織する。嘉手納は、「字」ごとに郷友会を作り、それぞれの会の事務所が「字」の年誌などを刊行している。沖縄は祖先崇拝を大事にする。もとの「拝所(ウガンジュ)」は基地となり消えてしまったが、新たな集落に拝所を移すことで、「字」の人々は祭祀(さいし)を守り続けている。郷友会があることで、先祖伝来の村の風習や伝統文化が守られ、現代に伝えられてきた面は大きい。それは祖先崇拝を大事にする沖縄ならではの長所であると言えるだろう。
 今は嘉手納飛行場になって消えてしまったが、千原(せんばる)という字がある。そこにある「千原郷友会」は、昭和35年に作られ、およそ300世帯で構成されている。この郷友会は他と違い、もう形のない故郷の代わりに皆の拠り所になり共同体として機能している。戦前までたしかに存在した故郷を絆(きずな)に、千原の人々はどのような思いで基地を眺め、暮らしているのだろうか。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

Back number