5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村
澤宮 優Yu Sawamiya
日本軍はこの年、嘉手納の北にある読谷村に沖縄北飛行場の建設を開始。年末には伊江島や小禄(おろく/現在の那覇空港の前身)、さらに石垣島にも本格的な飛行場拡張工事や建設を始めた。そして昭和19年5月、北飛行場を補助するために、嘉手納に中飛行場を作ったのである。
このとき北谷村の屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直などの「字」に広がる土地が日本軍に緊急に強制収容された。平坦な農耕地は飛行場を作るには最適だった。
沖縄各地の学校には、兵隊がやって来て兵舎として使うようになる。千原の地もそうだった。校舎を追い出された子供たちは集落の軒下や家に集まり、そこに先生がやって来て授業をするようになったが、当然授業らしい授業はできない。
人々はどんな思いで軍人の姿を眺めていたのだろうか。花城康次郎は語る。
「あの当時は日本軍にはものは言えないです。お国の指示だから、基地を作ることに反対はできません。反対の集会なんて開こうものならしょっぴかれて罰せられる、という怖さもありました。学校に兵隊が住むことも絶対におかしいですよ。だけど思っていても言えない時代でした」
屋良集落にいた津波古清助は、手記にこう書いている。これが当時の人々の本音だ。
〈こんな仕打ちがあっていいものか、無念でもあるし、腹わたのにえくり返る思いは消えそうもない。〉(『琉球新報』平成3年5月29日付)
彼が戦後復員したら自分の土地は金網で囲われ、田畑も奪われていた。
さて、戦時中、沖縄戦も迫ってくると、人々の犠牲は増すばかりになった。
自給自足の生活を送っていた人々は作物を栽培していた土地を取られ、食糧を調達する手立てがない。途方に暮れるばかりであった。さらに飛行場建設のために軍部から徴用された。徴用は子供も例外ではなかった。小学校も上級生になると、鍬(くわ)を持って集合させられ、飛行場周辺に戦車壕を作る作業に従事した。米軍の戦車が襲ってきたときに、戦車が滑走路に侵入しないように、その周辺に2メートル幅の壕を掘るのである。
滑走路には、実際の飛行機に代わって、竹で作って偽装した飛行機を置いた。米軍がそれに騙(だま)されて爆弾を落とすように仕向けるためで、本物の飛行機は住民の屋敷の庭に隠された。
そのころ、上空を米軍機が何度も旋回して去っていったという。おそらく後に米軍の飛行場にするために航空写真を撮っていたのだろう。
昭和12年生まれの砂辺松善は当時ちょうど小学校低学年。読谷村生まれだが、読谷村は空襲で危険だというので、母親の故郷の千原に引っ越してきた。千原で授業が行われたのは2年生までで、それからは校舎が使えず、公民館や村の集落を転々として授業を受けた。3年生になると、中飛行場作りのための土運びの作業に駆り出された。砂辺は言う。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。