よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村

澤宮 優Yu Sawamiya

 戦後、米軍は沖縄の各地において「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、基地を作ってゆくが、住民の衝撃はいかばかりであっただろうか。花城康次郎に聞くと、意外なことに「それほど関心はなかった」という答えが返ってきた。彼は言う。
「終戦当時は食べるのに精いっぱいで、それこそなるようになれでした。基地ができて、生活の環境が変わっても、下の方からどうのこうの言える立場ではないし、言おうとも思わなかった。そういう意欲もない時代だったんです、戦後すぐというのは」
 花城は「もう成り行きですから」とも語ったが、「ただ」と付け加えた。
「成り行きでなぜそうなったかわからないけど、自分の土地があるのに、なぜそこへ行けないのか、米軍が上陸する前のふつうの生活がなぜできないのか、考える人はいたと思う」
 その思いは他の集落も同じである。
〈戦前の緑豊かで田園の風情を見せていた屋良の面影を宿すものはほとんど失くなってしまった。……幾世代も受け継がれてきた聖なる土地を奪われた人々の気持ちは、何をもってしても贖えるものではない。〉(『嘉手納町 屋良誌』)
〈着のみ着のまま飢えと闘いながら戦火をくぐり抜けてきた人々を待ちうけていたものは、「郷里の喪失」と「住民の離散」という悲しい現実であった。〉(『字野里誌』)
 屋良は滑走路となってしまったし、収容所から出されるのがなぜか他の字より遅かった、かつての野里の住民は離散した。

必死で生きた戦後
 それでも嘉手納飛行場が作られて数年間は、基地内にある自分たちの耕作地で農作業することは黙認されていた。これを黙認耕作地という。基地の周りを迂回(うかい)せずに基地内の道路を通って役場や病院に行くことも認められていた。
 しかし昭和23年5月に嘉手納飛行場への全面立ち入り禁止が決まる。嘉手納の人々は北谷村役場へ行くのに10キロ迂回するようになってしまう。復興の様々な手続きを役場で行うには不便である。そんな事情もあり、この年の12月に嘉手納村が誕生した。嘉手納村になったのは、国直、東、野里、千原、野国、久得、屋良、嘉手納、兼久、水釜などの各字である。
 昭和25年に朝鮮戦争が始まると、嘉手納飛行場は米軍の出撃基地となり、飛行場が拡張されたが、このときから人々には米軍の航空機の事故に悩まされる運命が待っていた。
 昭和34年6月に起こった宮森(みやもり)小学校米軍機墜落事故では、戦闘機が住宅地に墜落し、17名の日本人が亡くなった(うち宮森小の児童11名が死亡)。同37年12月には空中給油機が屋良に墜落炎上し、村民が2人亡くなった。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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