5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村
澤宮 優Yu Sawamiya
千原エイサーが存在感を示したのは、大正4年に北谷村で行われた「大正天皇御即位祝賀芸能大会」である。北谷高等小学校で各集落ごとに芸能を披露したが、その中でも千原エイサーは大変好評で評価された。それ以降、千原エイサーは沖縄中で知られるようになった。
昭和31年に第1回「沖縄全島エイサーコンクール」が開催されたが、千原エイサーは準優勝し、さらに名声を高める。昭和50年の「沖縄海洋博」でも日本の民俗芸能の祭典で阿波踊りと共演している。エイサーこそが、まさに千原のアイデンティティーといえるだろう。
日本軍の飛行場にされた村
戦争が始まるまでは、千原は農村風景が広がる町だった。郷友会の顧問を務める花城康次郎は昭和6年生まれ。かつての集落の記憶が鮮明に残っている。
「暮らしは楽ではなかったですよ。自給自足の生活で、野菜、麦、大豆、アワ、ヤマイモなどを作っていました。その中で百合球根は主要な作物でした。収穫の時は日雇いの人を頼むほど多忙を極めました。またサトウキビ栽培も盛んで、馬車に乗せて港に運び輸出したんです」
花城康次郎も小さいころから農家の仕事を手伝った。下校すると家畜の豚や牛に水を飲ませるため甕(かめ)に井戸から水を汲んでおく。12歳になると、家畜の餌も作った。正月前になると豚を1頭つぶして食べる。燻製(くんせい)にもして1年間は竈(かまど)の上に吊り下げて保存しておき、保存しながら必要に応じて切って食べたという。「字嘉手納」まで出ると大通りもあり、そこには大きな商店街があって、塩やソーメンなど、家で作ることができないものを買いに行っていた。
子供たちは「ムートゥ」というレスリングのような遊びが大好きで、相手を押さえ込んで参ったというまでやる。「千原では誰が強い」というのが周囲の「字」でも話題になるほど盛んだった。「ムートゥ」は、農作業で刈ったススキの上で行う。ススキの上にはたい肥をかける。冬にはたい肥が発酵して温かくなる。子供たちがこの上でムートゥをすると、たい肥も上から圧縮されて、発酵が進むという一石二鳥の効果もあった。
しかし、のどかな農村にも戦争の影が忍び寄る。昭和18年ごろには太平洋戦争の戦況は日本にとって厳しくなっており、軍部は戦争指導の方針を千島列島、マリアナ諸島、ニューギニア、ビルマなどの圏域を絶対に守るというもの(「絶対的国防圏」)に切り替えた。そのためにマリアナ諸島の航空部隊を支援する拠点として、軍部は沖縄を重視するようになる。同時に米国側も、いずれ日本の本土を爆撃するときは、沖縄に航空基地を作るという密かな魂胆があった。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。