5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村
澤宮 優Yu Sawamiya
昭和40年代になると、嘉手納飛行場はベトナム戦争のための出撃基地になり、B-52爆撃機が日々飛び立つようになる。さらに事故は起こる。
昭和41年5月に空中給油機がまたしても墜落。コザ市と嘉手納村の境界だった。村民1人が死亡。同43年11月にはベトナム戦争に出撃予定の爆撃機が、滑走路をオーバーランして爆弾に引火し大爆発。嘉手納村民に16人の重軽傷者が出た。
平成6年4月には戦闘機が離陸直後、沖縄市白川に墜落、爆発した(米軍施設内)。
これらの事故は氷山の一角で、表に出てこない事故は山ほどある。その間、嘉手納の人々はどんな思いで暮らして来たのだろうか。
一番の不安はジェット機がいつ民家に落ちてくるかもしれない恐怖である。前述した砂辺は、「それは無意識にすりこまれている」と述べる。
その表れとして砂辺は車の運転を挙げる。嘉手納から沖縄市に行くときに、嘉手納飛行場の周りを走ることになるが、規定速度で運転している筈(はず)なのに、飛行場の傍(そば)に来ると、無意識に速度がオーバーしてしまう。そのとき走っている場所を確認すると、かつてB-52が落ちた場所だったと気づかされる。それも一か所ではなく、ジェット機が落ちたと言われる場所を走っているときは、無意識に速度超過してしまうのである。飛行場からそう遠くない場所に、先に述べた宮森小学校もある。
「ジェット機墜落事件を知っているので、自分の真上に落ちる恐怖から逃れられないんです。早く通り過ぎようと速度を出すんです。米軍基地の話はよくされますが、恐怖を体験しないとわからない心の傷があります。経験のない人には想像できないことです」
砂辺は今でも米軍基地がジェット機の演習などでサイレンを鳴らすと、空襲警報ではないかと咄嗟(とっさ)に反応して体が固まる。トラウマである。
砂辺が教師だったころ、家庭訪問に行くと、出された湯飲み茶碗が小刻みに揺れているときがよくあった。茶碗が揺れたのは米軍基地のジェット機のエンジン調整と重なり、その轟音と同調するためだった。そのときはエンジンの匂いまでした。騒音と匂いに砂辺は言う。
「沖縄の陸地の70%が米軍基地に取られているといいますが、本当はそんなもんじゃないです。空も、海も空間すべてが米軍に取られていて、やりたい放題なんですよ」
砂辺はもし自分に力があれば、政治を行う東京のど真ん中に沖縄の基地を持っていきたいと思うときがある。
実現したなら、官邸はどれだけの恐怖にさらされるだろうか。そのとき沖縄の人々の苦しみを政治家はやっと理解できるに違いない。
- プロフィール
-
澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。