よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

5.奪われた故郷──嘉手納飛行場にあった村

澤宮 優Yu Sawamiya

「満足に授業を受けていませんから、小学生のときは自分の名前を漢字で書けませんでした。書けるようになったのは、戦争も終わった後、中学1年生のときです。先生がベニヤ板に黒ペンキを塗ったものを黒板代わりにして、白墨で書いて教えてくれました。ノートも鉛筆もないので、地面に書いて覚えたんです」
 彼には印象に残っている幼いころの記憶がある。母の郷里に出掛けた砂辺は、母に背負われて真っ暗なあぜ道を進んでいた。このとき母がサトウキビの細長い葉を割き、三角形の形に結んで「さん」という魔除けを作ってくれた。食べ物に悪さをするマムジンという魔から守ってくれる言い伝えがあるこのお守りを、母は彼の背中に付けてくれた。
「自然に対する畏敬の念を親から教えられた地、という印象を千原には持っています」
 自然や大いなる存在に敬意を持つ地域、それが千原だった。

空襲に追われて
 昭和19年10月10日には「10・10空襲」と呼ばれる米軍の大空襲が沖縄を襲った。中飛行場も大部分が破壊された。さらに昭和20年4月1日、米軍が沖縄本島の西海岸に上陸すると、その日のうちに中飛行場を占領。4月10日には本土爆撃のための飛行機を飛び立たせた。6月には全長2キロあまりの滑走路が完成し、米軍はここを嘉手納飛行場として機能させる。
 千原の人々は、安全な沖縄北部のヤンバルという森の中に逃げた。当時の国頭郡羽地村(はねじそん/現・名護市)である。
『嘉手納町史』に記載されている手記によれば、避難生活は悲惨を極めたという。ある母親は、子供を背負いながら皆と一緒に逃げたが、「泣き出すと敵に見つかる。子供の口に布切れを当てて声を出させないようにしろ」と軍人たちから言われた。
 ある家族らは洞窟に避難したが、夜中に突然日本兵が入って来て「この洞窟は今から軍が使うから全員出て行け」と命令された。皆恐怖で震え上がったが、ある母親は、日本兵に両手を合わせ「2人の年老いた親と5人の子供がいるから出てゆけない」と懇願。しかし日本兵は聞き入れず、もの凄(すご)い剣幕で怒鳴った。母親は家族を連れて出てゆくしかなかった。
 沖縄戦は6月23日に組織的な戦闘は終わり、千原の人々は石川収容所(現・うるま市)に入れられた。昭和21年11月に帰村を許されたが、すでに故郷は見る影もなく消えていた。
 昭和21年11月に基地にならなかった嘉手納の一部の地域が返還されたとき、働ける大人、とくに男性は、収容所から「先遣隊」として住宅建設、居住環境作りに出かけた。
 大人たちが仮設住宅のような家を作り、やがてそこに収容所にいた家族を呼んで住むようになった。ひと家族あたり、2間から3間ほどのほんの小さなものだった。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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