よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか

澤宮 優Yu Sawamiya

 熊本城は、平成28年の熊本大震災で大きな被害を受けたが、なお復旧作業が続いている。城全体の復旧が完了するのは、令和34年度の予定である。熊本城を築城した加藤清正(きよまさ)の廟所(びょうしょ)は、城の近くの本妙寺(ほんみょうじ)にあり、寺の裏山の頂上には加藤清正の武者像が聳(そび)えている。「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民には呼ばれて人情のある武将として慕われている。
 本妙寺参道には明治時代の初めから戦前まで、ハンセン病患者が多く住んでいた。清正が熱心な日蓮宗(にちれんしゅう)信者で、彼がハンセン病を治すという信仰のため病者が集まったのだ。
 ハンセン病は、らい菌と呼ばれる細菌に感染することによって皮膚に肉芽的な変化が起こる皮疹(ひしん)や手足のまひなどの末梢神経障害を引き起こす病気である。すでに紀元前からインド、アフリカに見られ、1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前から「ハンセン病」と呼ばれるようになった。日本ではかつては「らい病」と呼ばれていた。戦前まで特効薬も無かったので完治は難しかったが、大風子油(だいふうしゆ)治療等で免疫力が向上し、自然治癒した人もいた。
 末梢神経障害から起こる後遺症のため、耳や鼻、唇、指などが失われる人も多かった。この病は感染力が強いという間違った情報が広まったので、患者は地域からは忌み嫌われ、放浪するしかなかった。
 戦時下、軍国主義を標榜(ひょうぼう)する国は、昭和6年に「無らい県運動」を進め、患者を強制的に収容所に隔離したが、その動きの中で、本妙寺の患者たちも隔離されて消えた。
 戦後には特効薬が出来て完治が可能になるが、昭和28年に「らい予防法」が制定され、以後平成まで患者はなおも隔離され、これがさらに根深い差別をはびこらせる原因となる。
 沖縄でのハンセン病は、明治39年の統計(対人口1万比)では本土よりも2.7倍の患者数があり、昭和10年ごろには13倍という数値がある。これは亜熱帯地域という気候のためというよりも、経済的な貧困で栄養状態が悪く、免疫力が下がったため発病しやすかったことが挙げられる。地縁的な結びつきが強いので、患者が出ると本人や家族への差別は酷(ひど)かったという。
 そのようなハンセン病を通して、新たな沖縄の姿を見てみたい。

なぜ沖縄では療養所設立が遅れたのか
 沖縄本島に公立のハンセン病療養所「沖縄県立国頭愛楽園(くにがみあいらくえん)」(現国立療養所沖縄愛楽園)が設立されたのは、昭和13年11月10日である。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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