7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか
澤宮 優Yu Sawamiya
ハンセン病が多く見られるのは、本島のヤンバルと呼ばれる国頭郡や宮古島(みやこじま)群島である。ヤンバルは丘陵地帯で生活は貧しいので、住民の免疫力も弱く、発病しやすかったと思われる。本土には多磨全生園(たまぜんしょうえん)(東京)、長島愛生園(ながしまあいせいえん)(岡山県)、菊池恵楓園(きくちけいふうえん)(熊本)などが設立されていたが、沖縄本島にはハンセン病の療養所はなかった。
じつは明治40年に国は那覇(なは)市郊外に療養所を作ろうとしたが、地元住民や県議会の激しい反対で頓挫する過去があった。沖縄は狭い平地に寄り添って集落を作るので、近隣の絆(きずな)は深いが、それが異端者に対しては仇(あだ)になることもあった。沖縄では地域でハンセン病者が出ても、放浪している病者が集落に来ても施しを行う習慣もあった。
しかし他の集落から来た病者が住み着くと、拒否する地域性もあった。そのため病者は集落の外れの掘っ立て小屋や山中の洞窟で過ごすしかなかった。
国頭村の辺野喜(べのき)では、患者が死ぬと穴に頭を下にして埋める。頭を上にすると、生き返ってくると信じられたからだ。さらに炒(い)り豆を供する。豆が芽を出すころに人々はこの地を訪れ、生き返らないように祈った。その後は家族も訪れず無縁仏になる。
その現状を見て、沖縄にもぜひハンセン病の療養所を作りたいと強く思ったのがクリスチャンの青木恵哉(あおきけいさい)である。彼自身もハンセン病で、ハンセン病療養所の熊本県の回春(かいしゅん)病院にいたが、昭和2年に病院の設立者で英国国教会宣教師のハンナ・リデルから、沖縄での布教とハンセン病患者の救済を託され、沖縄へ渡り病者へ布教活動を始めた。
青木の療養所設置までの苦労は彼の著作『選ばれた島』に詳しいが、住民たちは役所に押しかけその機能を停止させてまで設立に反対し、青木を殺害しようとさえした。そのため青木らは無人島のジャルマ島に半年間身を隠さなければならなかった。この地は風葬の島であった。そんな紆余曲折(うよきょくせつ)を経て作られたのが「沖縄愛楽園」である。
同じ沖縄でも、宮古島群島の県立宮古保養院は、宮古島群島の患者だけを収容する施設だったので、設立はスムーズに進み、沖縄本島よりも早く昭和6年に開設された。
「沖縄愛楽園」は名護(なご)市の屋我地島(やがじじま)に作られている。島へ渡る大きな橋を通ると、海岸は海水浴場になっており、周辺に浮かぶ小島の一つがジャルマ島である。青木は『選ばれた島』で、ジャルマ島での経験を人から顧みられない場所だけに神の備え給(たま)う唯一の場所という気がしたと述べ、カルバリー島(カルバリーとはイエスが処刑された丘のこと)と仲間で愛称したという。青木は昭和27年に沖縄聖公会から伝道師に任じられ、愛楽園の教会「祈りの家」を指導し、昭和44年に没した。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。