7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか
澤宮 優Yu Sawamiya
宮里は結婚前にはっきりと自分の病のことを告げていたにもかかわらず、妻は結婚後も病の恐怖に怯(おび)え、プレッシャーを引きずっていたのである。彼女はハンセン病に対して正しい知識を持っていなかったのだ。宮里は語る。
「彼女にはっきりと言っていたのですが、逆にプレッシャーを与えてしまいました。彼女は自分の子供も発病するという恐怖に陥ってしまったんです」
ハンセン病は遺伝はしない。まったくの誤解である。しかし妻の恐怖は日ごとに強まっていき、いくら病のことを説明しても受け入れようとしない。
「ハンセン病への間違った知識が先祖代々人々の脳裏にすりこまれているんです。だから患者はいつまでも病の烙印(らくいん)を押されています。妻に病気を教えたがために、僕はトラウマになり、病を公表することは恐怖にしかならず、言わなければよかったと思いました」
国賠訴訟の判決が出る2か月前、妻は子供を連れてアパートを出て行った。無人の部屋で宮里は「沖縄愛楽園」に戻ることを決める。
公表することの意味
平成13年5月11日、熊本地方裁判所で国賠訴訟の原告勝訴の判決が出る。宮里はこのニュースを「沖縄愛楽園」のテレビで見ていたが、喜ぶ元患者の姿を他人事のように感じていた。家族を失い、今の自分には人生に希望が見えなかったからだ。ところが彼は判決内容を見て、心境が変わった。
裁判所は要約すると「らい予防法≠ヘ憲法に違反し、強制隔離と差別で患者に取り返しのつかない人生上の被害を作り出した」と国家を断罪したのである。ここまで国の非を糾弾するのは異例だった。
「今までは何度ぶつかっても分厚い壁がありましたが、今度は壁を崩せる気がしました」
宮里はそう語る。地裁では国に勝ったが、控訴して欲しくない。もう自分もじっとしているわけにはゆかないと彼は原告団に加わる。原告団は判決後、すぐに首相官邸前で座り込みを行ったが、そこに宮里の姿もあった。そして世論に押され、国は控訴を断念する。
しかし国は支援について、具体的に動き出す気配はなかった。平成13年9月に原告団は厚労省の役人と面会するが、厚労省は「とりあえず聞く」という横柄な姿勢を崩さない。
その場で宮里は他の原告の人々とともに自分の苦しい過去を切実に訴えた。彼は初めて公の場で自分がハンセン病患者だったと告白したのである。
〈私はハンセン病から解放されたい。私はハンセン病の中の歌ではなく、ハンセン病から出ていく歌を作りたい。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。