よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか

澤宮 優Yu Sawamiya

 病院では末梢神経が侵される「神経らい」だと診断され、通院での治療を行うことにした。医者は固まった指を見て、ギターを弾くことはやめるように言ったが、彼は従わなかった。
「ギターは自分を支える唯一のものだからやめるわけにはいきません。そのためには指を動くようにしなければいけません。1本ずつ伸ばしてゆくと、針を刺されるような鋭い痛みがありましたが、諦めずに開くと徐々にほぐれていきました」
 3年かかったが3本の指は伸びた。しかし自由に動く指は2本だけである。1本は伸びても力が入らず、弾くことはできないので、2本の指でギターを弾くことにした。
 宮里は一浪後、地元の大学で社会福祉学を学ぶことになる。ところが彼の病を知る幼馴染(おさななじみ)も同じ大学の同じ専攻に進んでいた。その彼が宮里の病を大学内で知人に洩(も)らしたのだ。
 宮里は語る。
「彼は病への排除思考の持ち主だったんですね。大学では誰にも言ってなかったのに、周りからこの人はハンセン病だ≠ニ突然言われました。もうショックでしたね。それで人間関係が壊れました。病気のレッテルを貼られれば、一生その人は逃れられないんです」
 病は容赦なく宮里の体を襲う。今度は激しい腰痛が起こり、両足にも力が入らなくなった。高校時代のワンダーフォーゲルで足腰に負担をかけていたので、腰から足の末梢神経が病に侵されてしまったのである。
 大学は休学し、「沖縄愛楽園」にある専門病院で手術を受けることになった。症状が好転し、再び退所すると、彼はまたギターを手に取る。沖縄のライブハウス「沖縄ジャンジャン」などで歌い、ギター一本抱えて野外イベントにもよく出た。しかし軌道に乗るかと思った矢先に、また病が悪化する。悪化と好転の繰り返しで、大学の休学期間も長くなり、結局中退するしかなかった。
 宮里はライブ活動と同時に新聞社の校閲部で臨時社員として働き生計を立てていた。結婚したのは、昭和63年で34歳のときである。翌年、長男が生まれる。彼は言う。
「幼いころから家族と離れて療養所にいましたから、人一倍寂しさもあったんですね。だから家庭に憧れもあったんです」
 時代は昭和から平成へと変わり、平成8年に「らい予防法」が廃止され、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(以下国賠訴訟)の裁判が始まる。療養所に隔離された元患者の苦痛に対する補償を国に請求するものだ。
「らい予防法」も廃止され、社会では病に正しい理解をされているという思いを宮里は持っていた。しかし妻はちがっていた。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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