7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか
澤宮 優Yu Sawamiya
私は今度こそ、療養所の籍を抹消して、正式に退所したい。一生内緒にしろ、と言われたことからできた自分の心の鎖を断ち切りたい。〉
この話し合いの後、皆に背中を押され、宮里はギターを弾いて自分の思いを歌った。
平成14年4月12日に宮里は国賠訴訟の判決のあった熊本市で「生き直しコンサート」を行う。このとき初めてのCD「あの頃僕は」がリリースされており、コンサート会場で販売された。12月に宮里は「沖縄愛楽園」を正式に退所した。同年4月からは退所者へ国からの給与金制度が始まっていた。
宮里は以後音楽活動に主軸を置く生き方をするようになり、全国で「生き直しコンサート」を続けてゆく。母の訃報を知ったのは翌年(平成15年)8月である。
福岡市でコンサートをしていたため、母の臨終には間に合わなかったが、すぐさま駆けつけ、棺の中に眠る母親の顔を見た。宮里は彼女の枕元に自分のCDを静かに添えた。
「おふくろはきつかったでしょうね。親戚のなかで居場所もなく、僕の半生を背負い込んで、取り返しのつかない人生を送らせてしまいました」
宮里は呟(つぶや)いた。彼が初めて故郷の普天間市で歌うことになったのは、母が亡くなって2か月後である。それは故郷で病を告白することを意味したが、彼は迷わなかった。自分の生まれ育った場所で、彼は歌い、自分の生きざまも語ることができた。
「生き直し」は、自分は元患者だという告白をすることで可能になると宮里は考える。
「ハンセン病の人たちは誰にも言わないぞと、自分に幕を張ってしまいます。それは頑固な沈黙です。でもそれは本人のためになりません。生き直しを考えたら、世間から傷を受けても公表したほうが強くなれるんです」
退所者には宮里と歩くことを嫌がる人もいる。彼がハンセン病だったと公表したことで、一緒にいれば病のことがばれると言うのである。想像以上に偏見の壁が厚いことを知らされる。彼がハンセン病を社会病と呼ぶゆえんである。今も偏見が消えたわけではない。
宮里もライブ活動などで「元患者」という肩書がついて回ることに忸怩(じくじ)たる思いもある。しかしそのことで元患者たちに公にする勇気を与えることになると信じてもいる。
平成15年、宮里は障害を克服し活躍する人に贈られる「沖縄コロニー大賞」に選ばれた。彼の人権啓発のためのライブ活動が評価されたのである。平成20年には2枚目のCD「マイペンライ〜歌となれ 風となれ」をリリースした。タイトルは、タイの言葉で「大丈夫」という意味だ。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。