7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか
澤宮 優Yu Sawamiya
沖縄在住の作家大城貞俊(おおしろさだとし)の『椎(しい)の川』は、ハンセン病の家族の苦しみを描いた小説である。昭和17年、ヤンバル地方に住む一家の物語だ。6歳の少年の母、静江(しずえ)はハンセン病に罹患(りかん)する。今まで強い絆で結ばれていた地元の人たちが、一転して静江の家をさげすむ。静江の夫は、集落の人々から滅多打ちにされ、妻を村から追い出せと怒号を浴びせられる。
息子も子供たちから馬乗りにされて殴られた。「ナンブチ(ハンセン病の蔑称)の子供め」と罵られる。しかし最愛の夫は出征、静江は家族に黙って死出の旅に出る。
作者の大城はヤンバルで少年時代を過ごし、ユートピアのような自然の美しさ、村人のやさしさに触れた。しかし村で起こったハンセン病の暗い歴史を知り、大城は驚く。
「ハンセン病を調べてゆくほど悲しい歴史が出てきます。優しかった共同体も、無知や偏見で中から崩れていくんです。その悲劇は人間にとって克服すべきテーマだと思います」
テーマをさらに追うため、私はもう一人の元患者に会うことにする。
あの頃僕は……
熊本市在住でハンセン病の体験を歌うフォークシンガーがいる。沖縄出身の宮里新一(みやざとしんいち)だ。彼も「沖縄愛楽園」の出身者だった。
宮里は昭和30年宜野湾(ぎのわん)市で生まれ、8歳でハンセン病に罹(かか)り、好転、悪化を繰り返す中で、自分の人生への姿勢を歌に託してきた。「ひたすら」という彼の歌がある。
〈ただひたすらに無我夢中 歩き続けた この一本道を 立ちつくすように 眺めていた〉
歌詞に「ひたすらに」という言葉が何度か登場する。理由を聞くと、宮里は語る。
「あんまりつらくてさ。そんなふうにしないと生き抜いてゆくことができなかったんです」
小説には「私小説」という分野があるが、彼の歌は「私小説」の曲である。そこからハンセン病と対峙(たいじ)した若者の心情が浮き彫りになる。
「僕の一番の支えになったのがギターで、自分を信じる道でした。人生の風景や希望を考えながら作って、励ましていました。自分の内面を模索する歌だから、人に聞かすつもりはなかったんです」
自己救済のためのフォークソングだが、赤裸々な自分を出すことで、聞いた人たちが元気になってくれればと思い、後に人前で歌うようになったのだ。
健康だった宮里に異変が生じたのは、小学校2年生での学校の集団健診である。このころ、お尻や股(もも)などに斑紋が出るようになったが、痛くないので放置していた。念のため健診で見せると、「すぐに皮膚科に行くように」と医師に言われる。皮膚科に行くと、そこから県の保健所に連絡が行き、ハンセン病と診断された。なぜ罹患したのか原因は不明だ。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。