7.「せいしょこさん」はどこを見ているのか
澤宮 優Yu Sawamiya
「もう保健所への通報だよね」
その素早い対処に宮里は苦笑する。保健所では早急に「沖縄愛楽園」に行くように指示される。園に着くと、家に戻って着替えを用意することも認められない。仕方なく母親が着替えを取りに戻ることになったが、彼女が肩を落として帰る姿を今も鮮明に覚えている。
しばらくの泊まりだと思って入所したが、いつまで経(た)っても退所できず、小学校は園内にある学校に通うことになる。素直な少年の彼も、4年生になると性格がひねくれて、天邪鬼(あまのじゃく)になった。母親に会えるのは運動会など年に2、3度しかないので、親が恋しかったのだ。
園内の食事は美味(おい)しくなかったが、年に一度のハンセン病の予防デーのときは、園内の子供たちはホテルでご馳走(ちそう)を食べることができた。ところがそこにも思惑があった。
腹いっぱいおいしいものを食べると、子供たちは大きな部屋に行くように言われる。そこには何人もの医者やテレビカメラを持った報道陣がいた。
宮里たちはそこで医者に肌を見せると、医者が集まりあれこれ話し始める。研究材料なのである。この光景をテレビ局がニュースにしたため、彼はテレビに映り、ハンセン病だというのが親戚に知れ渡ってしまった。そのため母親は親族から追及される一幕もあった。
幸い宮里は園内での治療で快方に向かい、6年生のときに長期帰省ということで帰宅を許され、学校に通うことが可能になった。これから家に戻るというとき、入所者のおじさん、おばさんたちが彼にこっそり耳打ちする。
「この病気のことを絶対に人に話すんじゃないよ」
このとき宮里はハンセン病の恐ろしさを感じたという。園内に納骨堂があったし、葬式の光景も見たことがある。何となくおかしな光景だなと薄々感じていたからである。
宮里は自分の病のことは秘密にして、公立中学校に入学した。彼はサッカー部で活躍するが、3年になると、きつい練習の後に体中の神経が痺(しび)れる感じがした。宮里は回想する。
「悪化の前兆でした。退所するときDDSという薬を3か月分もらったんですが、飲み終わると、治ったと思って薬を取りに行きませんでした。飲み続ければ悪化しなかった筈です」
普天間(ふてんま)高校に進むと症状はさらに酷くなる。高校ではワンダーフォーゲルやフォークソングに打ち込む日々を送っていたが、ギターを持つ左手の指に鋭い痛みを感じたのだ。やがて指が霜焼けのように腫れて、凍傷みたいに感覚がなくなった。高校を卒業すると、左手の薬指、小指がまひして動かしにくくなっていた。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。