8.沖縄へのラブソング
澤宮 優Yu Sawamiya
すぐに現場に行くと、遺体は病院に引き取られ、警察が現場検証を行っていた。彼が落ちた場所はビルの4階で、夜景がきれいな場所として知られているところだった。自殺なのか、他殺なのかはわからない。当時は学生運動が真っ盛りの時代で、様々な集団に分かれ、内ゲバや凄惨なリンチを集団間で繰り返していた。佐渡山は、キヨシもそのリンチに巻き込まれたのかもしれないと思った。しかし原因ははっきりしなかった。
そこで佐渡山の目に入ったのは、手すりについた彼の握った手の痕(あと)だった。
「酔っ払っていたのか、誰かにやられたのかわかりません。ただぶら下がった手の痕を見たとき、彼は心の底では助かろうとしていたのだと思いました。生きていて欲しい奴がいないのはとても悲しい。じゃあ生かされた俺はどうすべきだろうか。それは彼のマブヤー(魂)を抱えて生きてゆくことだと思ったんですよ」
佐渡山は「ドゥチュイムニィ」の一節に新たに歌詞を付け加えた。
〈もしもあんたが 時間の果ての ガケップチに 立たされて 死ななきゃならぬ 定めなら 何を思って死ぬのだろう〉
彼はコンサートやライブで歌うときは、このフレーズを歌う。そのときキヨシがいつも傍にいるような思いがする。
キヨシのことに関連して、曲にはこんなフレーズもある。
〈錆(さ)びたナイフを眺めては 切れるナイフに憧れた 研がれたナイフを手にしても 悲しくなるのは何だろう〉
佐渡山は、体制側の政府にどうすれば沖縄の現実を伝えることができるのだろうかと思案した。彼はしばらく考えて呟いた。
「体制に対して時には激しい反対派になるときがあります。現在の防衛問題もそうだけど、考えれば悲しくなるばかりでね。こちらが研ぎ澄まされたナイフを持ったとしても、相手も同じ事をやっていると考えてしまう。そうすると人間の良心が無くなってしまうんですね。その悲しさをあの詞のフレーズに書いたつもりなんです」
この年(昭和45年)12月20日深夜、コザ事件が勃発した。この日佐渡山は忘年会をやっていた。彼は飲み過ぎたので早めに帰宅して寝ていたが、午前2時ごろに突然友人がやって来た。寝ぼけ眼で友人を見ると、「おい豊、起きれ。革命が起きた」と彼は叫んだ。コザの繁華街でピストルの音が鳴り響いていたのだ。
佐渡山が急ぎ足で騒動の現場へ行くと、道の両サイドに人々が集まっていた。発端はコザ市胡屋(ごや)の軍道26号(現国道33号)で米軍兵の乗った車が、横断中の沖縄の人を轢(ひ)いて怪我(けが)をさせたことである。運転する米軍兵は飲酒をしていた。轢いた米軍兵は逃げようとし、警察も逃亡を助けようとしていた。沖縄の人々はすぐに集まって、抗議の声を上げ、米軍の憲兵隊(MP)と飲酒運転の米軍兵を取り囲んでいたのである。飲み屋の姉さんは強い口調で佐渡山に言った。
「わったー(私たち)、このまま黙ってたらさ、人間って扱われてないさあね」
MPが事故処理を行ったが、彼らは群衆に威嚇発砲したので、人々の怒りが頂点に達した。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。