8.沖縄へのラブソング
澤宮 優Yu Sawamiya
日本復帰後の現実
復帰後の沖縄は、たちまち内地の資本に食い荒らされてゆく。その最たるものが昭和50年に開催された「沖縄海洋博」である。地元民は海の環境破壊などを理由に反対したが、政府の姿勢は強硬だった。
「海――その望ましい未来」をテーマに海洋博は沖縄県北部の本部町(もとぶちょう)で開催されたが、本土企業の土地の買い占めや、会場設立のために青い海やサンゴ礁は破壊され、魚の姿も見えなくなった。海洋博のホテル、設備投資は内地からの資本で賄われ、沖縄経済を潤すことはなかった。
この哀しさを佐渡山は「さとうきび畑の唄」という歌にこめた。
おじいは先祖代々のサトウキビ畑で野良仕事をしている。ささやかだが、沖縄のまぶしい陽に照らされ畑で働くことが彼の幸せだ。しかし隣の家は貧しさのため本土の企業に畑を売った。佐渡山はそれを「風がさらって行った」と表現する。だけどおじいは絶対に畑を売らないと決めているという歌だ。佐渡山はこう語る。
「海洋博のとき、本土のブローカーが沖縄のおじいちゃん、おばあちゃんに物を沢山あげて、あやして、サトウキビ畑を騙(だま)し取っていきました。僕も闘争小屋を訪れて彼らと語り合いましたが、お金の力でサトウキビ畑という宝物が売られてゆく。売る農民にもせめて魂は売らないでくれという切実な訴えがあったんです」
海洋博は終わった。入場者数も、予想された450万人をはるかに下回る350万人程度に終わる。海洋博をあてこんで地元のホテル、民宿、土産物屋が作られたが、業績不振のため倒産が相次ぐ。本土の金儲けのために沖縄の人々は不幸にされただけだった。
それが沖縄という島の宿命なのか。その3年後の昭和53年春に突然佐渡山は歌うことをやめて沖縄に帰った。
昭和50年代の前半になると、フォークソングも時代や政治へのメッセージ性を失ってゆく。代わりに登場したのが男女の愛という殻にこもったような歌である。聞き手も時代の変遷とともにフォークに求めるものが変わったのである。
その中で佐渡山は沖縄への大きな愛を歌い、メッセージを届けているという自負など無かったが、根底には平和への希求があった。それゆえに彼は移りゆく時代とのジレンマに悩んだ。
あのときの引退の理由を聞くと、佐渡山はしばし考え、言うべき言葉を探した。
「いろんな理由がありましたよ。それとあのとき流行っている歌が、自分の中で何か違うという思いもありました。男女の愛の歌やニューミュージックも大事です」
しかし世間は佐渡山イコール沖縄の歌というレッテルを貼る。自分は確かに沖縄をモチーフにした歌が多いが、その内容は沖縄限定の内容では無く、普遍的な歌を歌っているつもりだ。その部分をわかってもらえない。自分ではそうではないのにという思いがあった。
- プロフィール
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澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。