よみもの・連載

あなたの隣にある沖縄

8.沖縄へのラブソング

澤宮 優Yu Sawamiya

沖縄フォーク村
 昭和46年6月に日本とアメリカとの間で沖縄返還協定が調印され、翌年に沖縄は日本復帰を果たすことになった。しかし米軍基地は以前と同じように存在し、米国との密約で核が沖縄に運び込まれたという疑惑もあった。沖縄が置かれた現実は何も変わっていなかった。政府の裏工作に怒った琉球大学の学生たちは、反対運動を過熱させるが、佐渡山は怒りを感じても、暴力には反対であった。
 もっと広い連帯をして素朴な沖縄への思いを表現できないかと彼は考える。やがて歌好きの仲間が集まり、フォーク同好会の形になり、琉球大学生以外にも労働者やべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の人々も入って来た。
 そのころ、佐渡山の許(もと)をよく訪れた近所の小学生が玉城一石(たまきいっこく)、後のいっこく堂である。大学も学生運動のため休みが続き、佐渡山は泡盛を飲みながら家で「ドゥチュイムニィ」を弾いていると、隣にランドセルをしょったまま座って熱心に聞いていた。
「一石、俺の歌がまた出来たよ」
「なんていう歌ね」
「『ドゥチュイムニィ』っていうんだよ。独りごとって意味なんだ」
「それにしては長いね」
 そんな会話をしながら、佐渡山の家でご飯を食べて行った。

 昭和46年8月4日に沖縄タイムスホールで「第1回フォークフェスティバル」が開かれ、そこに佐渡山は出場する。ここで彼は「ドゥチュイムニィ」を初めて披露し、ここからフォーク同好会は、他の音楽グループと一緒に「沖縄フォーク村」を結成する。
 初代村長は佐渡山で、40名ほどのメンバーがいた。
 佐渡山は地元のラジオ番組にも出演するようになり、琉球放送のスタジオで歌っているとき、吉田拓郎がDJを務める「パックインミュージック」(TBS)のディレクターの桝田武宗(ますだたけむね)の目に留まった。彼は以前から佐渡山に注目していたが、実際に沖縄を訪れて佐渡山の曲をじかに聞くとさらに感銘した。
 桝田は佐渡山の曲を「パックインミュージック」で流してみた。これがすごい反響で吉田拓郎もぜひ番組に出て欲しいと願ったので、佐渡山は初めて東京の土を踏んだ。

プロフィール

澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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