8.沖縄へのラブソング
澤宮 優Yu Sawamiya
羽田空港に着いて空を見ると、スモッグが酷くすぐに沖縄に帰りたくなったが、番組に出演し、そこで「ドゥチュイムニィ」が流れると全国のフォークファンの胸を打ち、一躍注目を浴びる存在となった。
その一方で佐渡山は沖縄の日本復帰について複雑な心境を覗(のぞ)かせた。彼は祖国復帰への世論が高まったとき、反復帰をいつも考える人だった。
「祖国復帰は幻想であると思っていました。だって核抜き本土並みの条件だったのに、密約で核も沖縄に持ち込んでいいという核つき何でもありの密約を佐藤栄作首相は作っていました。その当人がノーベル平和賞を貰っている。とんでもない世界が展開していると思い、これはあかんという気持ちが歌に向かわせたのです」
その思いはヤマトンチュへも向けられる。内地の人たちは沖縄へのある固定観念を持っているように思われた。沖縄は戦場となり、戦後は、米軍基地で大変なところであるという目線である。しかし沖縄は暗い歴史ばかり抱えているわけではない。そうではなく、暗さも明るさも、あれも沖縄、これも沖縄なんだとわかってくれる人は少なかった。
内地からのそうした視線の押しつけも感じられ、佐渡山はヤマトンチュに対して「お前らにわかってたまるか」という怒りがあった。沖縄といってもひとくくりに定義できない姿があることをヤマトンチュはわかってくれようとしない。
「東京に行ったときは皆が敵でした。僕もヤマトンチュが嫌いでしたからね。そういう連中は今もいますし、歌い手の仲間にもいます。当時はあからさまに差別用語を使っている奴もいました。ただわかってくれるヤマトンチュも少ないけどいた。彼らと巡り会ったのが宝物でした」
アルバム「唄の市 沖縄フォーク村」は沖縄が日本に返還された直後から製作され、同年7月にエレックレコードからリリースされた。ジャケットに「俺は俺が生れ育った沖縄が好きだ 沖縄の空が海がみんな大好きだ!!」と書かれている。写真は夜明けの沖縄の海と空だ。「沖縄フォーク村」のメンバーの曲を集めたオムニバス形式のもので、トップに21歳の佐渡山の25番まである歌詞の「ドゥチュイムニィ」が8分かけて収録された。
佐渡山は昭和48年に「ドゥチュイムニィ」をシングルとしてリリースする。その年の5月にはファーストアルバム「世間知らずの佐渡山豊」を出し、以後も「仁義」「もっと近くへ」「存在」「イタリアンブーツ」など次々とアルバムを出すことになる。
「アサヒグラフ」昭和48年6月29日号の表紙に〈佐渡山豊 鮮烈のフォーク〉という見出しで佐渡山がギターを弾き、目を閉じて歌う写真が掲載されている。彼は時代の寵児(ちょうじ)になったのだ。
- プロフィール
-
澤宮 優(さわみや・ゆう) 1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。