よみもの・連載

城物語

第六話『民次郎の義(弘前城)』

矢野 隆Takashi Yano

「今年は不作だはんで、どうにもなんね」
 作太郎が苦々しくつぶやいた。昨年は豊作であったのだが蓄えなどあるわけがない。実れば実った分だけ侍たちが取ってゆくのだ。父の代理として十四歳から庄屋を務める民次郎は身をもって思い知らされている。
 若くして代庄屋となった民次郎に、作太郎はなにかれとなく目をかけてくれた。村の者たちとの接し方から、足りない年貢をどう工面するかまで、父親よりも親切に教えてくれた。
 腰に差す脇差も、作太郎からもらった物だ。
「四日前は駒越(こまごし)組、三日前は尾崎(おざき)組、一昨日は猿賀(さるが)組で百姓たちが起(た)っだっきゃ」
 先刻の四十がらみの男が言った。今年の作柄はどこも芳しくはない。城から派遣された役人たちに領内じゅうの田を見てもらう検見によって年貢を取り決めることを求め、各地の庄屋たちが百姓を集めて立ち上がっていた。しかし首謀者が捕縛されるなどしていずれも失敗に終わった。
 彼等の思いは城まで届かずに終わったのである。
「誰かが……」
 おもむろに民次郎はつぶやいた。みなの目がいっせいに齢(よわい)二十二の若き代庄屋にむく。
 民次郎は脇差から手を放し、蝋燭の横に置かれた紙と筆を取った。そして、純白の上に漆黒の染みを垂らす。己が名を淀みなく記した。首謀者が誰かわからぬように唐傘の骨のように円形に名を記してゆくため、それを見越して書いた。
「誰かがやんねば、百姓らの苦しみは伝わんね。だば、わいらがやるべ」
 若き代庄屋の真っ直ぐな言葉に大人たちが熱い目をしてうなずく。涙ぐむ作太郎に微笑みを返してから、民次郎は腰の脇差を手に取り、わずかに鞘(さや)を抜いて鍔元(つばもと)の刃に親指を押し当てた。鋭い痛みを塗り込めるように己が名の下に指を当てる。鮮やかな赤が紙に染みつく。
「民次郎の言う通りだで。わいらがやる。手筈は何遍も話したはんで、決行は明後日。すたっきゃ解ってんな」
 作太郎の言葉に異を唱える者は誰もいなかった。

 親指に残る柔らかな痛みを感じながら、民次郎は乳飲み子を抱く妻と相対していた。真夜中である。生まれたばかりの娘は安らかな寝息をたてていた。
「離縁してけ」
 唐突な夫の言葉に、妻は声にならない小さな息をひとつ吐いた。
 一年前にもらったばかりの妻だ。娘のをん・・が生まれたのはふた月前のことだった。
「なすて」
 瞳を忙(せわ)しなく左右に振ってしばし考えた後に、妻は短い問いを投げる。かすかに震える白い頬に、隠しきれない動揺がにじんでいた。
 すでに腹は括(くく)っている。会合のあった岩木山の麓から代庄屋を務める鬼沢(おにざわ)まで戻ってくるあいだに、涙は枯れ果てていた。聡(さと)い女だから、民次郎の目が紅いことにすでに気付いているだろう。だからといって躊躇(ためら)いはしない。やるべきことは頭のなかですでに整理している。すべてが終わるその日まで、淡々と遂行するだけだ。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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