よみもの・連載

城物語

第六話『民次郎の義(弘前城)』

矢野 隆Takashi Yano

 槍を引き、若者へ手を伸ばす。そして温もりを帯びた訴状を手に取った。訴状に添えられていた一枚の紙を広げる。唐傘連判状であった。三十あまりの百姓の名と血判が押されている。
「確かに受け取った。必ず殿に御渡しする故、ただちにこの場から引き取るのじゃ。わかったな」
「有難うごぜぇます」
 そう言って若者は雨でぬかるんだ地面に額をこすりつけた。
「面(おもて)を上げよ」
 三郎左衛門に言われて若者がふたたび馬上を見る。泥に塗(まみ)れてもなお、その顔は精悍(せいかん)であった。
「御主、名はなんと申す」
「鬼沢村の民次郎と申します」
「民次郎……」
 連判状に民次郎の名を見つけた。三郎左衛門を見上げる代庄屋は、村を背負うにはあまりにも若い。
「真(まこと)に御主が民次郎か」
 決死の覚悟を瞳に宿した青年は、黙ってうなずいた。

 弘前城本丸御殿内で、三郎左衛門は背を正して瞑目(めいもく)している。
 訴状を受け取るとすぐに百姓たちは退いた。それからすぐに三郎左衛門は訴状を仁右衛門に渡し、城番の高杉佐兵衛へと取りつがれた。そうして民次郎から受け取った訴状は、津軽家の当主である寧親の手に渡ったのである。
 いったん屋敷に戻ろうと思っていた三郎左衛門は、城代家老の津軽頼母(たのも)の使いの者に止められ、本丸御殿にある彼の部屋で待つようにと命じられた。今、御殿のなかでは当主と重臣たちによって評定が持たれている。百姓たちが城内へと押し入り訴状を提出するなど前代未聞のこと。評定が行われている間も城内は大騒ぎであった。激しい足音を鳴らしながら廊下を行く者は一人や二人ではなかった。
 室外の喧噪(けんそう)をよそに三郎左衛門はひとり瞑目して家老の帰りを待つ。
 そろそろ評定もひと段落つく頃だ。
「待たせた」
 静かに唐紙が開き、頼母の声がした。三郎左衛門は畳に手を付き平伏する。
「顔を上げろ」
「はっ」
 壮年の家老は顔に疲れをにじませながら、三郎左衛門に語りかけた。
「寧親様は蝦夷地や領内の警護に忙しく、政は我等に御任せになられておられた」
 蝦夷地に露西亜の船が上陸してからというもの、津軽にも頻繁に異国の船が現れていた。そのため上磯(かみいそ)や青森沿岸の警護も津軽の負担になっている。
「我等と申しても笠原殿の為されるままに、政は為されておったのだがな」
 上席家老、笠原八郎兵衛(かさはらはちろうべえ)は寧親の信望を得て立身した男である。寧親に対しては忠実な家臣だという顔を見せるのだが、下には容赦がない。蝦夷地警護の負担を大義名分に、苛烈な取り立てを行った。
 駒越組の蜂起からはじまった今回の騒動の根幹には、この笠原の百姓に対する厳し過ぎる仕打ちがあったのである。寧親に取り入り政を牛耳る笠原に、頼母ら他の重臣たちは散々苦汁を舐(な)めさせられてきたのだった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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