よみもの・連載

雌鶏

第四章

楡周平Shuhei Nire

 声が震え出すのを覚えながら言葉を振り絞った。「でもね、養子に出すのを決心した一番の理由は別にあるんです。迎えたいと言った先が裕福な家で、勝彦に何度も会って、是非にとおっしゃっていると聞かされたからなんです」
 養子に出せば、二度と我が子に会えなくなってしまう……。
 無心で乳を吸う勝彦の顔を見る度に、幼い舌使いを感ずる度に、何があってもこの子を手放してはならない。独り立ちする日が来るまでは、守り抜かなければならないと貴美子は思った。
 だが、それも乳を与えている僅かな間だけで、授乳が終わり房に戻されると勝彦の将来に思いを馳(は)せるようになる。
 出所の後、二人を待ち構えているのは、間違いなく最底辺の生活だ。
 財力もない、後ろ盾もない人間が、のし上がるのに最も早い手段はただ一つ。学を身につけることだ。
 しかし、どれほど高い学を身につけたところで、勝彦は「人殺しの息子」という汚名、偏見から逃れることはできない。
 まともな職にも就けまいし、実業家を志そうにも、先立つものがない。まともな結婚も望めないだろうし、仮に嫁を迎えたとしても、今度はその子供が同じ目に遭うことになるだろう。
 どう考えたところで、勝彦を待ち構えているのは絶望的な人生なのだ。
 そうした現実に直面した時、勝彦は母親をどう思うだろうか。
 殺人に至った経緯に理解を示し、苦難しかない人生を共に歩もうと言ってくれるだろうか。
 いや、そんなことはない。絶対にあるはずがない。
 こんな母親の下に生まれてしまった己の運命を呪い、母親を恨み、母親を捨て、一切音信を断ち、過去を知る者がいない土地で、再出発を図ろうとするに違いない。
 考えがそこに至った瞬間、かつて清彦が語った出所後の暮らし方を思い出し、貴美子は愕然となった。
 自分は清彦に捨てられ、勝彦にも捨てられることになるのだと……。
「裕福な家? 本当にそう言われたのか?」
 鴨上の声で、貴美子は我に返った。
「ええ……。確かに、そう言われましたけど?」
「だとしたら、君の子供は日本にはいないかもしれないね」
 鴨上が何を言わんとしているのか皆目見当がつかず、
「えっ?」
 貴美子は短く漏らした。
「だってそうじゃないか。裕福な家が、殺人で服役中の母親が産んだ子供を養子に迎えたいなんて言うと思うか?」

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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