よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

 先刻の声はなんだったのか……。
 たしかに悲鳴だった。これまでに一度も聞いたことのない父の声。
「なにしてんのっ」
 姉が駆けおりてきた。
「父さまが」
「わかってるっ」
 うつろな眼差しでつぶやいたしんをそのままにして、姉が斜面を駆けおりてゆく。
「姉さま……」
 またもやぐんぐんと小さくなってゆく背を、しんは追った。いつもそうだ。しんの前には姉の背がある。菜の花を両手で強く握りしめながら、震える足で斜面をおりてゆく。
「かっ、勘弁してくだせぇっ」
 父が叫んだ。誰かと揉(も)めているようだった。
「父上っ」
 姉の声が麓から聞こえた。しんはまだ来た道の半分も戻っていないというのに、姉はすでに父のそばに帰っている。
「どうか、どうかお許しをっ」
 姉の声だ。父がつづけるように、謝罪の言葉を叫んでいる。麓でなにが起こっているのか。
 すべて集めても一反に満たぬ小さな田が八枚と、薄い板に泥を塗りたくった壁と刈り取ったままの藁(わら)を乱雑に乗せた屋根で作ったあばら家。それが父の持つすべてだった。奪われるような物などなにもない。父は麓にある田を耕していた。ただそれだけ。なのにどうして、あんな声を吐いているのか。胸が早鐘のごとくに打った。駆けていた時にはなかった息苦しさに立ち止まりそうになる。
「黙れ下郎がっ」
 父や姉よりも大きな声が木々を震わせながら耳に届く。あまりの強烈さに、しんの躰は一瞬軽やかに跳ねた。
「父さま……。姉さま……」
 鬼だ。父と姉は鬼に襲われているのだ。しんは歯を食いしばって斜面を駆けおりる。自分が行ったからといって、どうにかなるわけでもない。気性も躰も脆弱(ぜいじゃく)な己は、二人の元に辿り着いても足手まといにしかならないはずだ。それでも、じっとしていられなかった。二人の姿が見えてくる。畦(あぜ)にひざまずいていた。父と姉の頭を踏みつけることができる場所に、男が立っている。
「お侍……」
 腰から突きでた二本の棒を見ながら、しんはつぶやいた。男は腰の二本の棒を茶渋の羽織の裾からひけらかすように見せびらかし、胸を張っている。やはり鬼だ。腰から二本の角を生やした鬼の前に、父と姉はひざまずいている。
 やっとのことで麓まで辿り着いた。
「父さま」
「そこにおれっ」
 駆け寄ろうとしたしんに、泥に額をこすりつけている父が怒鳴った。びくんとおおきく躰を震わせて、しんはその場で固まる。
「なんじゃ」
 太い眉を吊(つ)りあげ、鬼の目がしんをとらえた。その瞬間、鬼の鼻がひくりと震え、唇が汚らしく吊りあがる。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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