よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

 勝気が声となって姉の口から漏れた。
 駄目、気取られる……。
 信夫は思うが声にならない。
 聞き逃す団七ではない。姉の繰りだした分銅が正眼に構えた刀のうえを駆け抜け、そのまま太い右腕に垂れさがった。投げられた勢いが加わった鎖は、分銅を回転させながら団七に絡みつく。
「よしっ」
 想いが表に現れる姉が、忘我の裡に叫んだ。団七の腕に絡みついた鎖を思いっきり引く。
 が……。
 仇が笑っていた。
 見開いた眼に細い血の筋が無数に走っている。深紅の蛇が黒く小さな瞳にむかって群れ集っている。口は三日月よりもなお細く、醜悪に尖り吊りあがっている。それまで眉間の縦皺から雄々しくせりあがっていた眉が、奇妙な八の字を描いていた。か弱い獲物を完全に掌中に収めて、下卑た雄が歓喜を満面に張りつかせている。
 この男も想いが表に現れる性質か……。似た者同士、引きよせあう宿命にあったのか。
 鎖を引こうとする姉の腰が、がくんと横に大きく振れ、つぎの刹那、団七のほうへと物凄(ものすご)い勢いで吸いこまれていった。膂力(りょりょく)で敗けたのだ。分銅を捉えきれぬとさとった団七は無理に避けようとはせずに、この時を待っていた。躰に鎖を絡みつかせ身動きを奪われると見た団七は、姉の策にみずから乗ったのだ。そして力勝負に引きこんだのである。
「阿呆がぁっ」
 吊りあがった口から黄色い歯を露わにして叫んだ団七が、汚らしい飛沫を撒(ま)き散らす。
 師匠の言葉が脳裏に蘇る。
 お前ぇはもう目を閉じてたって、同じ動きができるようになってる。その業が役に立つ時がかならずくる。いいか信夫。お前ぇが姉ちゃんを助ける局面がきっとやってくる。そん時を見逃すなよ。わかったな……。
「わかりました」
 信夫は脳裏で笑う師に答え、ひとり笑う。そして、団七にそっと語りかけた。
「阿呆なのは」
 団七を見つめる信夫の瞳に殺気が宿る。
「あなた」
 柔らかい舌に、誰にも聞こえぬ声を乗せた。伏せた目は、掌中にある長刀しか捉えていない。眼前に広がる光景は見ずともわかる。鎖を強力で引く団七と、男の力に翻弄される姉。
 そう……。
 二人は私を見ていない。
 静謐(せいひつ)に、粛々と、左右の足を滑らせてゆく。
 時はない。
「死ねやぁぁぁっ」
 阿呆が叫ぶ。
 揺らめくふたつの気配を辿り、長刀だけを見つめて歩む。
 正雪が教えてくれたのはただひとつ。
 大上段からの斬りおろし。
 この日のために。
 この日のために……。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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