よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

「娘ふたりで仇討ちなんざ、やめておきなよ。相手は白石の殿さまの剣術指南だっていうじゃねぇか。敵(かな)うわけがねぇ」
「かならず本懐を遂げてみせます」
 姉が顔をあげた。
「言うだけなら誰にだって……」
 言葉を止めた正雪の手が、いきなり姉の頬を打った。乾いた音が朝の長屋に響く。呆気にとられて固まる姉を見て、正雪が笑う。
「懐刀だったら、お前さん死んでたぜ」
「でも、いまのはっ」
「お前さんがやろうとしてることは、こういうことなんだよ」
 姉の抗弁を断ち切るように、正雪がきっぱりと言った。二度目の溜息を吐いてつづける。
「卑怯だと言えんのは、お前さんが生きているからだ。殺しあいに卑怯もへったくれもねぇんだよ。仇討ちだなんだと聞こえのいいこと言ってるが、人を貶(おとし)めることに喜びを感じられるような奴じゃなきゃ、袴に泥がはねたくれぇで人を殺す外道を討つこたあできねぇ。あきらめな」
「嫌です」
 姉が正雪の肩に飛びついた。鼻と鼻が触れあうほどに近付いて叫ぶ。
「いまでも目を閉じると、父が斬られた時のことが浮かんでくるんです。私ははっきりと見ていました。父を怒鳴りつけている間は怒っていたのに、あの男は斬る刹那、笑ったんです。あの時の奴の顔が、瞼(まぶた)の裏に焼きついて離れない。あの男を殺すことだけが、私の望みなのです」
「百姓の娘だろ」
「御上(おかみ)に認められなくてもいい。闇討ちでもいい。どんなことがあったって……」
「あんた」
 とつぜん正雪の背後から女の人の声が降ってきた。開け放たれた障子戸のむこうに、三十手前の女の人が立っている。見るからに正雪よりも大柄だった。三度目の溜息を吐いた正雪が、肩越しにその人を見あげる。
「お前は引っこんでろ」
「引っこんでなんかいられないよ。小さな娘さんが五日も座りこんで頼んでるんだ。見てみなよ。奥州からずっと着の身着のままなんだろうさ。絣(かすり)がぼろぼろじゃないか」
 江戸に来てから躰を洗っていない。しんは誰にも知られないように己の匂いを嗅ぐために深く息を吸った。汗と垢(あか)の濃い匂いがして顔が熱くなり、思わず顔を伏せる。
「教えてあげなよ」
「でもよぉ」
「ったく、この人は」
 正雪の細い躰を押し退(の)けるようにして、女の人が姉の前にしゃがんだ。丸顔の肉付きのよい人だった。正雪よりよほど強そうだと、しんは思った。
「とにかく家にあがんな。私のでよけりゃ着替えもある。躰を洗って綺麗(きれい)にしな」
「おいおい、俺ぁ」
「まだ、四の五の御託をならべるつもりかい」
 女の人が肩越しに正雪をにらむ。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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