よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

 呆気ないものだった……。
 父の骸(むくろ)が村人の手によって運ばれてくると、母は筵(むしろ)を開く間もなく小さな悲鳴をひとつ吐き、息絶えた。もともと心の臓が弱っていたのだから仕方ない、などとささやき合う村人の声を聞きながら、しんは姉とともに両親の遺骸を見つめている。
 逃げる姉はすぐには家には戻らず、人気のない山の洞穴で夕刻まで待った。東の空が藍色に染まるころに穴を抜け出て家に戻った。
 鬼は家までは追ってこなかった。騒ぎでも起こったのか。それとも父を斬り殺したことに満足したのか。とにかく鬼は、二人の前に現れなかった。姉はずっと、しんの右の掌を両手で包みこんでいる。目を赤く染めてはいるが、涙は流していない。逃げるさい父の断末魔の叫びを聞いた時だけ、姉は泣いていた。
「あれは剣術指南役の志賀団七(だんしち)じゃ」
 姉妹に代わって形だけでも弔いをと集まった村人たちの語らいのなかに、そんな言葉を聞いた姉が、しんの手を放し立ちあがった。両親の遺骸と姉妹が座ればそれだけで板間は埋まってしまう。村人たちは土間に立ち、入りきれぬ者は戸外に屯(たむろ)している。先刻の言葉は土間から聞こえた。姉は裸足のまま土間におり、男の肩をつかんだ。
「剣術指南役、志賀団七。それが父さまを斬った奴の名前なの」
「そ、そうじゃ」
 父とあまり年の変わらなそうな男が、うろたえるようにして答えた。
「見たの」
「い、いや遠くからだが」
 ばつが悪そうに男が言った。一度、喉をおおきく鳴らしてつづける。
「志賀様が畦を歩いて来られたので、与太郎さんが平伏しようと田圃(たんぼ)から出ようとしてよろけた。そん時に持っとった鍬(くわ)が跳ねて泥が飛び、志賀様の袴を汚したんじゃ。志賀様は大層な剣幕で怒りなさった」
 男は誰にも目を合わせぬよう、顔を伏せて語る。父が斬られようとしているのに助けなかったことを恥じているようだった。だが、しんは無理もないと思う。あのような鬼に、目の前の肥(ふと)った男が勝てるわけがない。姿を晒(さら)していれば、父とともに斬られてもおかしくはなかった。
「志賀団七」
 目をそらすように藁ぶきの屋根に目をやる男の肩をつかんだまま、姉がつぶやく。その顔を見た刹那、しんは背筋に寒気を覚えた。桃色の唇をゆるやかに揺らしながら、声を吐かずに姉がなにかをささやいている。目を凝らすと、志賀団七という名を幾度もつぶやいているようだった。
「志賀様は城下でもあまりいい噂(うわさ)を聞かねぇ」
 肩をつかまれている男が、姉に同情の声を投げた。
「関係ない」
「え」
「そんなの関係ないっ」
 叫んだかと思うと、姉が板間に駆けあがって、しんを抱いた。頬に触れる姉の顔が、焼けるように熱い。
「もう二人で生きていくしかない。わかるね」
「姉さま」
 強く抱かれ息もできない。やっとのことで言った言葉を、姉は聞いていないようだった。
「志賀団七……。私たちから父さまと母さまを奪った奴の名だ。忘れちゃいけないよ」
 うなずくだけで精一杯だった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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