よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

「では始めよっ」
 男はそれ以上なにも言わなかった。団七が嫌らしい笑みをたたえたまま、ゆっくりと腰の刀を抜く。
 汚らしい目が姉を通り越して信夫をとらえた。
「ますます良き女子(おなご)になったではないか」
 言った団七の喉が、遠くに立つ信夫にまで聞こえるくらいのおおきさで鳴った。隠そうともせぬ獣の情欲が、背筋を凍りつかせる。胃の腑(ふ)から固い物が込み上げるのを必死にこらえながら、信夫は団七から目をそらさない。仇討ちの場である。隙は見せられなかった。
 姉が腹の底から気合の声をひとつ吐き、団七の目を妹からそらした。相手は私だと言わんばかりに、鎌の刃先に殺気を宿らせる。そんな姉を団七は鼻で笑う。
「鎖鎌など持ちおって……」
 団七が正眼に構える。姉は右手につかんだ鎖を回しはじめた。先に付いた分銅が空を裂き、甲高い音をたてる。その調子がだんだんと速くなってゆく。鎖鎌のあげる悲鳴にも似た声に緊張が伝播したのか、群衆が黙りはじめた。しんと静まり返った河原に、姉の振るう鎖の音だけが響きわたる。姉は動かない。その背後で長刀を握りしめる信夫も同様である。団七の目は姉だけをとらえて放さない。構えもしない信夫のことなど眼中にないといった様子で、正眼に構えた刀の切っ先に殺気をこめ、前に出した左の爪先で丸石を撫でながらじりじりと間合いを詰める。
「どこでなにをしておったのか知らぬが……」
 鎖の悲鳴を掻き分けて、団七の声が届く。
「女子が付け焼刃の武芸など振るうても、己が身を滅ぼすだけじゃ。女子は三つ指立てて男に従っておればよいのだ」
 叫んだ仇が大きく左足を踏みだした。姉の背中が小さく揺れるのを、信夫は見逃さない。鎖の尾をぴんと張り、分銅が団七の顔めがけて一直線に飛んだ。
 捉えた……。そう信夫が思った刹那、さっきまで団七の顔があった場所を、分銅が打った。かわされたことを悟った姉が、鎖を引いて分銅を引き戻そうとする。
「姉さまっ」
 信夫は叫んだ。姉には、団七がどうやって避けたか見えていないようである。さすがは剣術指南役だ。姉が分銅を繰り出すことなど、はなからお見通しだったらしい。左足で間合いを削ると見せかけ、踏みだした足を素早く引きながら、躰を反転させたのである。鎖を眼前にやり過ごした団七は半身(はんみ)のまま足を滑らせ、姉の間合い深くに潜りこんでいた。姉が分銅を引き戻そうとしている時には、仇は己が間合いの裡(うち)に姉を捉えている。信夫の叫びに気付いたが、もう遅い。勝ちを確信して笑う団七の刀は、鎖を避けると同時に下段へおろされていた。間合い深くに入った団七は、鎖を引こうとする腕を切りあげる。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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