よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

「済まなかった」
 長屋の一番奥に座っている正雪が、そう言って頭をさげた。姉とふたりで師とむかいあう信夫は隣を見た。おおきく見開いた姉の目と信夫の視線が重なりあう。江戸に来たころは細くて硬かった躰が鍛えあげてもなお丸みを帯び、背も伸びた。姉よりもおおきくなった信夫は、正雪の妻の背をも越えている。小柄な正雪はすでにふたりとも抜きさっていた。なのに、胸のふくらみだけは姉のほうが勝っている。それが少しだけ信夫は悔しい。
 梢と並ぶ正雪が、頭をあげず言葉をつづけた。
「三年で仇を討たせてやるなんて言っておきながら、五年も経っちまった。お前ぇたちには本当に済まねぇと思ってる。が、聞いてくれ。相手は剣術指南役だ。勝てる見込みは万にひとつだ。だからどうしても宮城野の鎖鎌の腕を十分な物にしたかった。五年でなんとかなったと思う。大丈夫だ」
 正雪の言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。
「頭をあげてください先生」
 姉が身を乗り出して、正雪の背に触れようとする。すると師は、白い手から逃れるようにさっと上体を起こして笑った。五年の月日を経ても、姉は変わらない。幼いころから真っ直ぐに育っている。いや、厳しい修練を経て、純真さのなかに決意という強さがしっかりと備わっていた。
「やっと故郷に帰れる日が来たな」
 快活な声を吐いた正雪の隣で、梢が鼻をすすっている。
「こいつらはこれから本懐を遂げにゆくんだ。湿っぽいのは止めろ」
「だってさぁ」
 梢は二人にとって年の離れた姉のようであった。恐らく梢も二人を妹同然に思ってくれているはずだ。その証拠が、ふくよかな頬を濡らす滝のような涙である。
「おい信夫」
 正雪の目が信夫にむく。いつになく真剣な師の眼差しに、おもわず背筋が伸びる。
「俺ぁ、お前ぇに教えてもらった」
 信夫が正雪に教えたことなどなにひとつない。戸惑いが返す言葉を見失わせる。そんな信夫に構わず正雪はつづけた。
「五年前にお前ぇが長刀を振る姿を見て、俺ぁすぐに見切りを付けちまった。二人を見るより宮城野に心血を注ごうと思ったんだ」
 正雪は間違っていない。仇を討つつもりもない信夫に関わる時間は無駄である。
「だがなぁ、俺に教えてもらったたったひとつのことを、お前ぇは五年間飽きずにやった。その結果が今日のひと振りだ。お前ぇの一文字斬りは立派な業(わざ)になった。自信を持って良い。愚直にひとつのことをやりつづけることが、どれほどの業を生むのか。俺はお前ぇに教えてもらった。ありがとよ」
 正雪が深々と頭をさげた。
「先生」
 うろたえる声を耳にした正雪が、すっと頭をあげて信夫を見た。
「お前ぇはもう目を閉じてたって、同じ動きができるようになってる。その業が役に立つ時がかならずくる。いいか信夫。お前ぇが姉ちゃんを助ける局面がきっとやってくる。そん時を見逃すなよ。わかったな」
 無理だ……。
「わかったかって聞いてんだよ」
「は、はい」
 仕方なく答えた。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

Back number