連載
初恋父(と)っちゃ
第九回 川上健一 Kenichi Kawakami

「買った当時は更地だったのですか?」
 水沼は写真を手に取りながらいう。小さなビルの周りに建物はない。
「そうです。更地にして引き渡すというのが契約でしたから。最初に土地を見に来た時はまだ家が建っていましたね。といっても空き地の中に四、五軒ほどありましたかね。一軒だけまだ引っ越しをしていない家がありまして珍しい名前でしたね。えーと、何という苗字だったかなあ、あ、そうそう、ナ……、ナで始まる……、ナグモ、ナツ、そうだナツ何とか、春夏秋冬の夏でしたね、エート、ナツメ、ナツカゼ」
「ナツサワではありませんでしたか?」
 水沼は思わず身を乗り出す。
「ナツサワ……、そうだ、そうでした。夏に小川の沢で夏沢さんでした。涼やかな名前で珍しいと思ったものです」
「おお! やっぱりここに引っ越していたんだ」
 山田が目を見開き、
「あの、その夏沢さんの家に大学生の娘さんがいたはずですが、記憶にありませんか?」
 と水沼がいう。
「いやあ、挨拶した訳ではありませんから、家族構成まではちょっと分かりませんねえ」
「では、夏沢さんはどこに引っ越していったかご存じないでしょうか?」
「さあ、弊社は以前の地主さんとはまったく関わり合いがないので、そこまでは分かりません」
「じゃあ、あれだよ水沼。ここを地上げした不動産屋に聞けばいいんだよ。もしかしたら移転先の家とか土地を世話したかもしれないじゃないか」
 と小澤がいう。
「うん、そうかもな」
 と水沼が顔を上げたと同時に、
「それはダメですね」
 と佐藤嘱託社員は申し訳なさそうに微笑する。
「ダメ、とはどういうことでしょうか?」
「バブルがはじけた時にその不動産会社はつぶれてしまいました。景気のいい不動産会社でしたが、極楽から地獄の底へストンですよ。あっけないものでした。栄枯盛衰は世の常と申しますが、イケイケドンドンで事業を拡張しすぎてにっちもさっちもいかなくなったんです。トップは一族で固めた同族会社で、これがまた揃いも揃って派手好きでしてね、酒に女にギャンブルに政治家のフィクサー気取りで政治献金ばらまきとやりたい放題。あれじゃあ潰れてしまいます。その点わが社は堅実経営でして、おかげさまで業績はまあまあです。何事も、まあまあ、ほどほどがいいみたいですね。それでみなさんはその夏沢さんとはどういうご関係で?」
 佐藤嘱託社員はニッコリと笑って尋ねるのだった。



  3    次へ
 
〈プロフィール〉
川上健一(かわかみ・けんいち)
1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。
Back number
第九回
第八回
第七回
第六回
第五回
第四回
第三回
第二回
第一回