よみもの・連載

雌鶏

第一章2

楡周平Shuhei Nire

 もちろん、かつての姿を留(とど)めている建物がなかったわけではない。しかし、よくよく見ると、猛火に晒(さら)されたのだろう、外壁は焼け焦げ、窓ガラスは爆風で吹き飛び一枚も残ってはいない。ただただ、瓦礫(がれき)が積もった平野が果てしもなく広がっているだけであったのだ。
 文字通りの廃墟と化した東京の姿に驚愕すると同時に、あまりにも非現実的な光景であったが故か、あるいは現実から無意識に逃避しようとする気持ちの現れか、関東平野はかくも広大であったのか……と奇妙な感慨を抱いたものだった。
 本当の悲劇が貴美子を襲ったのは保土ヶ谷(ほどがや)の自宅に帰り着いてからだ。
 自宅があった周辺は、文字通りの焼け野原、瓦礫の山と化していたのだ。
 母は……。
 貴美子が真っ先に案じたのは、母の安否である。
 貴美子の父親は、横浜の元町で貴金属店を営んでいた。
 もっとも戦時中は、貴金属どころの話ではない。戦況の悪化が傍目(はため)にも明らかになった時点で、店を一旦閉じたのだったが、そこに召集令状が届いた。
 昭和十九年のことだが、当時父親は四十一歳。本来、四十歳であった徴兵年齢の上限が、戦況の悪化に伴って、昭和十八年に四十五歳にまで引き上げられたことで、対象者となってしまったのだ。
 焼け跡に人影がないわけではなかったが、数は少ない上に、見知った人間はいない。
 それでも、母の安否が気になって、
「あの……私、ここに住んでいた者ですが……」
 と通りすがりの女性に声をかけた。
 母と同年代と思(おぼ)しき婦人であったが、
「妹がこの近くに住んでおりましてね。空襲があって以来、音信不通になってしまったもので、無事だったなら、家があった場所に戻っているんじゃないかと思って、時々訪ねているのですが……」
 悲痛な表情を浮かべ口籠った。
「私、勤労学徒動員で立川にいたもので、この辺りが空襲に遭ったことを知らなかったんです。空襲は、いつのことだったんですか? この辺は住宅地なのに、米軍はなぜこんな酷(ひど)い爆撃を?」
 貴美子は急(せ)き込んで訊いた。
「空襲があったのは、五月二十九日の昼のことで、焼夷弾が落とされたそうでしてね。この近くに被服廠(しょう)があるじゃないですか。それで攻撃されたんじゃないかって……」
 被服廠とは陸軍の軍服を作る工場のことだが、周囲は木材と紙が多用された民家の密集地である。そんな地域に焼夷弾を落とされたらひとたまりもない。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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